2021年5月20日木曜日

天理教学概論1 第6回


「おさしづ」の研究

―神の指図から何を学ぶか―


 前回の授業では、「みかぐらうた」の研究について紹介しました。「つとめ」の地歌である「みかぐらうた」の研究には、「つとめ」の意義をより深く理解し「よろづたすけ」の「つとめ」を誤りなく勤習できるようにする、という基本姿勢がありました。

 やはり「みかぐらうた」の研究は、「みかぐらうた」を地歌とする「つとめ」と切り離して考えることはできないでしょう。もちろん、教祖を通して伝えられた神意を知るうえで、どの「原典」も欠かせないテキストであることは共通しています。しかし、それぞれの原典の特質にしたがって、それぞれの原典を学ぶ姿勢や目的は微妙に異なっていることも理解してもらえたのではないでしょうか。今回は、「おさしづ」の研究について紹介します。

「おさしづ」とは何か

 広い意味では、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)を通して口述された親神の教示を意味します。具体的には、教祖ご本人及び「教祖存命の理」を受けて、教祖の「現身おかくし」(逝去)のあとに神意を取り次いだ、本席/飯降伊蔵(教祖の高弟の一人/「さづけ」の理を渡す立場与えられて「本席」と敬称される)を通して啓示された口述の教え/神の指図のことです。これを広義の「おさしづ」としておきましょう。

 現在書き残されていないものを含めて、教祖が直接に伝えたお言葉はかなり沢山あったはずですが、明治20年に教祖が「現身をかくす」以前のお言葉については、しっかり書き残された文献があまりありません。「あまりありません」と敢えて言っているのは、まったく無い訳ではないからです。これらの伝承資料については、次の講義で詳しく説明します。

 また、狭い意味では明治20年から40年までの神の指図を筆録した「書き下げ」を編纂し、現在では7巻本にまとめられた書物のことを言います。これを狭義の「おさしづ」としておきます。このテキストは「おふでさき」「みかぐらうた」とともに、天理教教義の源泉をなす三原典のうちの一つとされています。


*広義の「おさしづ」と区別し易くするために、「おさしづ本」と表記しても良いかも知れません。テキストとしての「おさしづ」と神の教示としての「おさしづ」の区別は、以前に説明した広義の「お筆先」と「おふでさき」の区別にも通じます。

 とはいえ、ここで一番重要なことは、「おさしづ」は教祖を通して語られた神の教示である、ということです。公刊されている原典としての「おさしづ」(全7巻)に収録されているお言葉は、ほとんど教祖から「言上の許し」をいただいた飯降伊蔵を通して語られた言葉であり、教祖ご本人の口述ではありません。しかし、そこに記録されている言葉は教祖の言葉であり、月日のやしろである教祖を通して伝えられた親神の思召なのです。

 これについては、最晩年の本席・飯降伊蔵を通して伝えられた「おさしづ」に、次のような印象的な言葉があります。


影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。

【明治四十年五月十七日(陰暦四月六日)午前三時半】


「おさしづ」に語られている言葉は、形式的には飯降伊蔵という人を通して語られた言葉ですが、実際はすべて教祖を通して伝えられた神の言葉である、というのが天理教の信仰者の立場です。

「おさしづ」の言葉には、その時々の状況を説明した「割書(わりがき)」という見出しの文章が付けられています。上記の言葉を含む「おさしづ」の割書には「十二時過ぎより本席身上激しく障りの処三時に到り俄かに激しく相成り、教長初め一同揃うて居ります、何か御聴かし下さる事ありますか、と願」とあります。

 明治40年6月9日に飯降伊蔵は出直(逝去)していますので、このときはかなり差し迫った状況であったと言えるでしょう。飯降伊蔵を通した「おさしづ」は、明治40年6月9日の出直(逝去)の当日まで続きます。

 また、中山正善・二代真柱(天理大学の創設者)は、第10回・国際宗教学宗教史会議において発表した「天理教教義における言語的展開の諸形態」のなかで、「おふでさき」は天理教信仰における原理的規範を示し、「みかぐらうた」基本的な信仰の心得がてをどりの地歌として生命化されたものであり、「おさしづ」は、現実の歩みを正す具体的な指導の言葉であると、三原典の性格の違いについて述べています。

 現実的な問題についてより具体的な教示がなされ、人々を導くかたちをとっていることが「おさしづ」の特徴だといえるでしょう。

「おさしづ(本)」の編纂と刊行

 おさしづは口述されたお言葉を書き取ったテキストですが、「おふでさき」とはまた違ったかたちで「原本」が残されています。

「おさしづ」は主に3人の書き取り人たちがその場でお言葉を速記し、そのあと三者の下書きをつき合わせて清書をつくり、それを「書き下げ」として願人に渡されました。このため、多くの「原本」は各地に散らばっていました。

 これらの「書き下げ」を集めて活字化し、編纂したのが現在の「おさしづ本」です。ですから、「書き下げ」の筆跡鑑定原本の書誌的な研究は、むしろ執筆者が限定されている「おふでさき」以上に重要でしたし、現在の「おさしづ本」の編纂過程における苦労は、並々ならぬものであったはずです。


 きちんと浄書された「書き下げ」が残されているのは、教祖が現身をかくされる直前の明治20年1月4日(旧12月11日)~明治40年6月9日までの20年間です。同じように刊行に時間はかかりましたが、原本は完全なかたちで残されていた「おふでさき」とは違って、各地に散らばった「書き下げ」を収集して「原本」を確定することの困難さが、「おさしづ」の刊行を遅れさせる要因の一つとなりました。

 教祖40年祭(大正15年/昭和1年/1926)のあと、年祭活動の中心人物の一人であった松村吉太郎/高安大教会初代会長は、次のように述べています。


「今日、本教は予期以上の成績をおさめ、いかなる方面からいっても恥しい点は一つもないのでありますが、然し只一つ、現在の本教の欠陥としましては、この教義の編纂がまだ完成されておらないことであります。近来、ようやく教義の興隆ということが本教内において注目されて来たようでありますが、これを他宗教と比べるときは、遥かに遜色を認めるのは私一人ではありません」(松村吉太郎「道の八十年」)

*天理教では、教祖が現身をかくされて以来、1年、5年、10年と年祭を催し、その後も10年ごとに、ご存命の教祖とともに「陽気ぐらし」の実現に向かう歩みを確認し、決意を新たにする「年祭」を行なっています。


 こうしたなかで、50年祭直前の大正14年4月に「教義及び史料集成部」が創設され、原典の公刊や教祖伝の編纂、後には天理教教典の編纂事業に取り組みます。この時期には、「おふでさき」と同じように―大正10年に高安大教会が刊行した「おさしづ集」を含めて―すでにさまざまな「おさしづ」の私刊本が刊行されていました。
 しかし、これらは当然のことながら、残された「おさしづ」全てを網羅するものではなかったので、まず本部に保存されていた書き下げと松村吉太郎蒐集のものからはじめて、各教会保存の書き下げを集めて比較検討し、昭和2年~6年の間に最初の「おさしづ本(33巻本)」を順次公刊します。順次公刊したのは、それだけ各地に散らばっていた書き下げを収集して、それらを編纂するのに時間がかかった、ということを意味します。

 この33巻本をもとに、教祖50年祭と立教100年祭の両年祭の旬とされていた昭和11年~12年の間に、8巻本のおさしづが刊行され、全教会に「おさしづ本」が下附されます。しかし、昭和12年に日中戦争がはじまり、さらに昭和16年には日本がアメリカとの戦争に踏み切っていくなかで、各教会に下附された「おさしづ本」は「おふでさき」とともに国の指導で回収されました。再び各教会に下付されるのは、終戦後の昭和23年以降のことです。

 その後、教祖80年祭に向けて8巻本を改修することになり、そのために既載・末載を問わず残された書き下げを収集し、書き下げの用紙の検討と筆蹟鑑定をしたうえで、取次人による書き下げであるかどうかを判断しました。そして、いくつかの表記上の変更を加えて、現在の改修版昭和38年~41年に刊行されました。さらに改修版は、教阻90年祭の際に縮刷版として刊行され、現在皆さんのよく知る全7巻の「おさしづ」になります。

「おさしづ」の研究史と今後の課題

「おさしづ」研究の分野としては、原典として決定版を編纂していく過程の書誌的な研究のほかに、「おさしづ」の言語表現の研究歴史的研究、個別の「おさしづ」の解説教理的(理念的)研究など、さまざまな研究が蓄積されてきました。対面式の授業であれば、資料の配布や回覧によって研究の内容を詳しく説明できるのですが、時間とデータ容量の余裕がありません。

 ここでは、簡単に「おさしづ」研究の可能性についてまとめておきましょう。



 まず「おさしづ」は、①天理教史の一次史料(当時の歴史を学ぶ基本的文献)として、重要な意味を持っています。明治20年から40年の間に、天理教内ばかりでなく国内外においてもさまざまな出来事がありました。こうした歴史的出来事に対して、当時の人々は常に「おさしづ」を伺って問題に対処しようとしてきました。

 また、あるべき教会や信仰のあり方を教示するために、親神/教祖の側から飯降伊蔵を通して神意が伝えられているケースも沢山あります。教会公認や一派独立、教祖年祭といった天理教史の重要なトピックスばかりでなく、当時の社会状況等を知るための史料としても「おさしづ(本)」の内容は極めて貴重なのです。

 また「おふでさき」や「みかぐらうた」と同じように、②教理の源泉となるテキスト(原典)としても重要です。「いんねん」や「たんのう」といった教語(天理教独自の概念や用語)は、ほとんど「おさしづ(本)」のなかでしか使われていません。このため、これらの教えについて深く考えるためには、「おさしづ」の内容を広く確認する必要があります。

 また、言葉や概念自体は明確に提示されていなくても「生まれかわり」などについて説いた事例が沢山あり、これらを広く参照することによって天理教の基本的な人間観や世界観について考えることができます。さらには、教会本部の「ぢば」への移転や「かぐらづとめ」の様式などについての教示は、より具体的な事例を通して教えの本質的な要素について考える材料を提供してくれます。

 さらに「おさしづ」は、③求道の手引き(信仰生活の糧)として、わたしたちの人生を支えてくれます。「おさしづ(本)」にまとめられた「書き下げ」には、人生の難問に直面した際に、困難を乗り越えて生きていくことを可能にするような力強いお言葉がたくさん書き残されています。これらの「神の言葉」とともに生きるとき、必ず多くの人々の人生が豊かになるはずです。人は多かれ少なかれ、節目々々に人生を支えてくれる言葉とともに生きています。ときには「諦めたらそこで試合終了だよ」というような、漫画の一コマの言葉が多くの人の支えになることもあるくらいです。

「おさしづ」には、人生の岐路に直面した人々が真剣に神意を伺った際に語られた、神の応答が書き残されています。同じような人生の問題は、100年の時間を経た現在に生きる人々にとってもまったく変わらずに存在しています。真剣にそのお言葉に向き合う人は、きっと現在の自分の問題に向き合うヒントをそのお言葉のなかに見つけられるはずです。

「おさしづ」研究の基本姿勢は、教祖を通して伝えられた教えを生活に活かし、現実問題に対処する方途を「おさしづ」に学ぶことだと言えるでしょう。

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