2021年9月28日火曜日

天理教学概論2 第2回


教祖伝の研究① 

―人類の歴史の転換点―

 前回の授業で確認したように、秋学期の講義では「③歴史教学」「④実践教学」の諸分野について学んでいきます。また、天理教学の諸分野の学びをより深めていくための「補助教学」の課題についてもあまり詳しく述べる時間の余裕はありませんが紹介する予定です。




*この「天理教学の研究領域」の分類は、これから皆さんが宗教学科で学んで行くさまざまな学問分野と重なっています。2・3年次で講義を履修する際に、どの分野の授業なのかイメージできるように、しっかり覚えるようにしてください。

物語から歴史へ

「歴史教学」の研究分野の一つとして、まず「教祖伝」の研究について紹介しましょう。天理教の教祖の伝記である「教祖伝」について語る場合に、避けて通れない問題の一つに、近代的な歴史学の成立とともに生じた「歴史」と「物語」の差別化の問題があります。これは天理教の教祖伝に固有の問題というよりは、あらゆる宗教の教祖や開祖とされる人々の伝記に共通する問題の一つです。

「歴史」を「物語」と切り離し、「歴史」を明らかにする「歴史学者」と「物語」を創作する「歴史家」を区別したのは、19世紀を代表する歴史学者であり、近代的な「歴史学」の創始者とされる、レオポルト・フォン・ランケ(1795ー1886)です。




 ランケは、実証主義を基本とする厳密な史料批判によって、歴史的出来事科学的・客観的事実として記述する「歴史学」の手法を確立します。ランケは、歴史的出来事は "wie es eigentlich gewesen"(ヴィー・エス・アイゲントリッヒ・ゲヴェーゼン/実際にそれが起きた通りに)記述されるべきであるとし、実証的な根拠に乏しい物語や荒唐無稽な冒険譚などは、歴史学が対象とする歴史記述からは排除されることになります。

 この史料批判によって、歴史学は科学的な学問分野の一つとして確立されることになりました。客観的な歴史記述のもとになる文献史料は、まず「外的」史料の真贋(偽物か本物かの鑑定)を批判的に検証する必要があります。さらには、誤記や改竄などの痕跡がないかを確かめて、虫食いや落丁などの欠落を補完し、史料の出所や由来伝播の過程などを検証します。

 私は個人的に、江戸時代から明治・大正・昭和初期くらいの文献史料をよく扱いますが、この時期の日本は識字率が高かったので、同じ文献の写本や印刷物のバリエーションが多彩であり、贋作が多いのでかなり慎重な史料批判が求められます。

 また、「内的」な批判の作業として文献の書き手が事実を記しているのかどうか、が問われます。もし、虚偽を記しているのであれば、それは何故なのか。心理的・政治的状況の分析が求めらることもあるでしょう。さらには、文献史料の残されにも政治的な要因が関わります。多くの場合に、歴史として書き残されるのは「勝者」の物語であり、「敗者」の歴史は闇に葬られます。だから、貴重な資源であった紙を無駄にしないために、襖の裏張りなどに再利用された文書のなかに、失われていた歴史が発見されることもあるのです。


神話と歴史

 近代科学の一分野としての歴史学が確立されると、過去の歴史的事実が新しい視座から検証されることになりました。とくに宗教史の分野では、神話時代の歴史的な偉人の物語「聖書」の記述などの客観性や科学的事実性が問われることになります。

 近代科学としての「歴史学」を基本にすれば、「創世記」の記述や神話的な物語の多くは、「事実をあるがままに記した」歴史の記録と見なすことができなくなります。イエス・キリストや仏陀が行なったとされる、さなざまな奇跡や超自然的な現象の記録などの多くは、客観的・科学的に事実を確認することができません。また、古事記や日本書紀などに記された神代の記録などについても、科学的・客観的に検証可能な事実であるかどうかが問われることになります。

 新約聖書に記された、十字架に架けられて処刑されたイエスが「復活」して、弟子たちと出会う出来事は、歴史的な事実としては起こりえない出来事です。しかし、これを実際に起こった出来事として受け容れなくては、キリスト教の信仰自体が成り立ちません。

 多くの釈迦/仏陀の伝記では、母の右わきから生まれた釈尊が、すぐに七歩歩いて天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったとされています。これも客観的な事実としては受け入れ難い記録ですが、信仰的には重要なエピソードの一つです。

 救い主としてのキリストの「神性」や真理を悟った仏陀の「超人間性」を伝えるこうしたエピソードは、後世の人による作り話なのか、それとも歴史的な事実なのか。当時の人々の願いや信仰が物語として結実したとか、釈尊の母親は子宮外妊娠をしていたなど、もっともらしい説明が無数に加えられますが、どれもこの問題を完全に克服できていません。

 信仰的な真実の主観性歴史的な事実の客観性架橋することは、キリスト教においても仏教においても19世紀~20世紀の神学/仏教学上の主要なテーマの一つになりました。




 たとえば、ジョゼフ・エルネスト・ルナン(1823 - 1892)は、近代合理主義的な観点からイエス・キリストの伝記を描きます。1863年に刊行された『イエス伝』では、イエスは救い主(キリスト)ではなく、比類なき人類愛を持った一人の歴史的人物とされ、奇跡の記述や超自然的な伝説は極力排除した人物伝が書かれました。キリストの神性ではなく、イエスの人間性を強調したのです。

 また、エルンスト・トレルチ(1865-1923)は、キリスト教の教会史を神学的な議論から解放し、神の意志の実現の歴史としての教会史ではなく、西洋社会史の一分野としての教会史を描きました。こうした考え方は、同時代のマックス・ヴェーバーのような人にも影響を及ぼすことになります。

 仏陀の伝記(仏伝)の超自然的・伝説的要素については、19世紀以降の日本でも活発に議論されることになりますし、古事記や日本書紀における神代の記述についても、津田左右吉のような人たちによって検証されることになります。


歴史から再び物語へ

 しかし、現在ではこうしたナイーブな実証主義的歴史学自体が、批判的に検証されつつあります。

 ランケの歴史記述は、実際にはかなり偏ったものであり、「ランケは、決してランケ主義者ではなかった」としばしば揶揄されます。ランケ本人が記述した世界史やヨーロッパの歴史には、特定の史料への偏り恣意的な史料の選択が頻繁にみられ、狭い範囲の史料を活用して、より広い範囲の歴史物語を描いていると批判されました。

 ランケは、歴史学を科学的な学問分野として確立することを目指しましたが、自分自身も完璧に科学的・実証的・客観的な歴史記述を実現することはできなかったのです。現在では、厳密に科学的な事実だけを客観的に記述することは、歴史の記述に「書く」という作業が欠かせない以上、ほぼ不可能であるということが共通認識になっています。




 ベネデット・クローチェが、『歴史叙述の理論と歴史』(1917)のなかで「すべての歴史は現代史である」と語っていることは有名です。歴史は、現在と未来のあり方を選択するために描かれるのであり、決して価値中立的ではありません。

 また、E.H.カー『歴史とは何か』(1961)のなかで強調している「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」といった指摘も重要です。過去の悲劇的な出来事の記憶は、根深い復讐の原動力にもなりえますが、未来への一歩を踏み出す大きな力にもなりえます。過去をどのように語り、未来をどのように生きるのか。その選択ができるのは、現在を生きる人たちなのです。

 歴史を記述する際には、「何を」記述しているのか以上に、「どのように」語っているかについて、つねに意識する姿勢が大切です。すべての歴史記述たとえその記述や史料批判の厳密さに程度の差はあるにしてもある意味ですべて物語なのです。しかし、歴史は物語であると考えることは、すべての歴史はフィクションであり、どこにも真実は存在しないといった、最近のフェイク・ニュースのような主張ではありません

 ある特定の歴史叙述だけが科学的・客観的な真実である、という一方的な態度を保留することによって、多様な歴史の語りを可能にすることが、歴史叙述の物語性を強調する歴史理論の役割なのです。





*こうした歴史理論の先駆者の一人は、私が米国のスタフォード大学で指導を受けたヘイドン・ホワイトという人です。最近、日本語に多くの著作が翻訳されていますので、興味のある人は挑戦してみてください。

 歴史の物語性を前提にすれば、19世紀的な実証的・科学的な歴史記述ばかりでなく、もっと柔軟な歴史叙述の様式たとえば、小説や絵本や演劇などを選択できるようになるはずです。


近代の「歴史学」と教祖伝

 昭和31年(1956)に公布され、寛政10年(1798)~明治20年(1887)の教祖の生涯を記した『稿本天理教教祖伝』(以下『教祖伝』)は、19世紀に確立された歴史学の手法をもとにしながら、20世紀の史書としてまとめられています。

 当然のことですが、この授業で紹介してきた19世紀~20世紀の歴史研究における「歴史的事実と信仰的真実」の葛藤は、『教祖伝』の編纂と叙述にも大きく影響しています。

『教祖伝』の稿案を刊行前に検討した「第16回教義講習会」のなかで、編纂の責任者であった天理教の二代真柱・中山正善氏は、現在編纂している『教祖伝』について、次のように述べています。

編纂する者は、史実篇と、そうして信仰篇逸話篇と、その三つの角度から書くのでしょうが、読む者としてはさようなものは、一にかかりてひながたをたどり、ひながたを喜び、身に行なうところの渾然たる姿となっていくように、読ませていただきたいのであります」(『第16回教義講習会 第1次講習録抜粋』)

 ここでは「史実篇」「信仰篇」を別々に編纂するのではなく、同じテキストを実証的・科学的に検証された歴史的事実をまとめた史書(史実篇)として編纂し、一方で本書を読む信仰者は、「中山みき」という一女性の伝記ではなく「月日のやしろ」として神の言葉を伝えた、教祖(おやさま)の伝記(信仰篇)として拝読し、正しい人間の生き方のモデル/「ひながた」を記した教義書として尊重することを求めています。




 こうした編纂と拝読の姿勢の区分は、19世紀以来積み重ねられてきた、キリスト教や仏教の史伝をめぐる議論を色濃く反映していると同時に、かなり上手く「歴史的事実」と「信仰的真実」を架橋していると言えるのではないでしょうか。

「歴史的事実」と「信仰的真実」の架橋というこの課題は、「教祖伝」ばかりでなく天理教学の一分野としての「歴史教学」全体にとって重要な意味を持っています。「歴史教学」は近代的な学問としての「歴史学」を前提としますが、その目指すところは「信仰的真実」を明らかにすることです。

 この講義では、こうした「歴史教学」と「歴史学」の微妙な関係を意識しながら、これまで「歴史教学」の分野で積み重ねられてきた研究を紹介していきます。次回は、現行の『教祖伝』の編纂と刊行について、もう少し詳しく検討します。

◎次回の10月6日(水)から、対面授業がはじまります。教室は、3号棟3階の33A教室です。1時間目ですので、授業に遅れないようにしてください。

 さらに復習したい人は、このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

https://forms.gle/2ztimKAC6uWeDt7B9


2021年9月19日日曜日

天理教学概論2 第1回

 

天理教「学」と歴史教学・実践教学



 皆さん。こんにちは。天理教学概論2を担当する、宗教学科の岡田正彦です。この授業は宗教学科の1年次生を対象にした必修授業です。春学期に続いて、宗教学科の皆さんがこれから4年間かけて学んでいく「天理教学」という学問の基本的な姿勢と概要について紹介し、この学問の可能性について一緒に考えていきます。よろしくお願いします。

 それでは、まずこの講義の概要を読んでみましょう。 


 人はなぜこの世界に生まれ、何のために生きているのか。生命はいつ、どこで、どのように生じたのか。「死」とは如何なるものか。宇宙の果てはどこにあるのか。普段は意識していませんが、私たちはつねに/すでにこうした「こたえられない問い」とともに生きています。

 太古から人間は、こうした問いについて「考え」、時には直感的にこたえを「表し」てきました。これらが哲学や芸術の営みです。また、宗教的な偉人たちはこうした問いに対して、超越的な立場からこたえを「示し」てきました。天理教を信仰する人々には、教祖を通して開示された親神の「教え」があります。

 人類に与えられた究極の「こたえ」である、この「教え」を学び、探求し、実践し、真実の「こたえ」とともに生きることの意味を求め続けていくことが、天理教学の課題です。

*天理教学概論2では、とくに天理教の歴史と現状(歴史教学と実践教学)について考えます。


天理教「学」とは・・・何でしたか

 春学期の授業では、「天理教学」の全体的なイメージを学ぶとともに、天理教学の研究領域のなかで、とくに「原典学」「組織教学/教義学」について学びました。これまでの研究の一端について、少し紹介した程度でしたが、内容は覚えているでしょうか。

 大事なポイントの一つは、この授業は「天理教」の授業ではなく、「天理教の授業だということでした。

 教祖の残した言葉やテキスト(原典)をもとに、天理教の教えの内容を紹介したり、天理教の歴史や活動を紹介したりするのではなく、これらのテーマについて、これまで蓄積されてきた研究の成果を紹介し、これからの研究の可能性について考えることを目的としています。

 天理教学も学問である以上、その研究の成果や主張する命題の価値、客観的・合理的に判断されなくてはいけませんし、研究の根拠となる資料や史料は実証的に検証される必要があります。

 とはいえ、天理教の教祖の言葉は「神の言葉」であるかどうか、といった信仰上の問いに客観的・実証的に答えることはできません。教祖の言葉が神の言葉であるのかどうか、これを判断できるのは信仰だけです。「信じる」という主体的・主観的な営みのみが、教祖の神性を認めて、その言葉を真理であると判断する基準になり得ます。




 しかし、教祖の書き残したテキストを筆跡鑑定したり、歴史的な年代を推定したり、使われている用語の意味テキストの構成などについて考察する場合には、その正誤の判断は、客観的・合理的・実証的になされる必要があります。

 大和の方言では「豊作」を意味する「よのなか」という言葉を解釈する際に、方言の意味をまったく無視して「世の中」と一方的に解釈したり、まったく別人の筆跡で書かれたテキストを「おふでさき」の一部と見なすような行為は、やはり慎むべきでしょう。表紙に執筆年が書き記されている「おふでさき」の執筆年代は、原本の記載を無視して決定することはできません。

 また、根拠の実証性よりは、議論の客観性や論理的な整合性を重視する組織教学/教義学においても、極端に偏った主張天理教の人間観や世界観として表明するようなことがあれば、これは大きな社会問題になる可能性があります。とくに現代社会に固有の課題に言及する場合には、慎重に丁寧な議論(熟議)を積み重ねる姿勢が必要不可欠です。

 ネット上で発言した内容が、すぐに炎上して大きな社会問題になる現状を考えれば、つねに公正で客観的な立場から発言する姿勢の大切さは、皆さんにも理解できるのではないでしょうか。



 八百屋の店先に並んだリンゴの味は、実際に食べてみないと分かりません。美味しいか美味しくないか、という判断は主観的なものです。しかし、赤いリンゴと黄色いリンゴの産地の違いや歴史的な背景を説明することは、さまざまな知識を身につけることによって可能になります。

 糖度計を使って、リンゴの味を客観的なデータで示すことも可能でしょう。もちろん、「味は食べてみれば分かる」と言って、リンゴの皮をむいて試食させてくれる八百屋さんも魅力的ですが、宗教学科で学ぶ人たちには、データや客観的な知識を駆使して「天理教」について説明するスキルを身につけてもらいたい、と思っています。


天理教学の研究領域について

 それでは、春学期に紹介した「天理教学の研究領域」をもう一度確認しましょう。




 秋学期は、主に後半の③歴史教学④実践教学の諸分野について学んでいきます。春学期と同じように、基礎的な理論や代表的な研究成果を紹介する程度になりますが、来年からそれぞれの分野について、より深く学んでいくことになります。

 2年次以降に受講する授業の準備のような講義になりますので、基本的な概念歴史的人物の名前などは、しっかり覚えるようにしてください。また、紹介した文献などは、出来るだけ自ら手に取ってみてください。この授業で文献を紹介しているのは、皆さんに自分で読んでもらうためであり、この授業で紹介した内容を学ぶだけではあまり意味がありません。

 また、「補助教学」に分類した学問分野は、宗教学科の専門科目として学ぶさまざまな学問の内容とほぼ一致しています。せめて簡単な概要くらいは、この授業のなかで紹介しておきたいと思っています。

 秋学期は、次のような【授業計画】にもとづいて、講義を行なう予定です。

 1.天理教学の研究領域と歴史教学・実践教学
 2.教祖伝①―歴史的事実と信仰的真実―
 3.教祖伝②―史実・信仰・逸話― 
 4.天理教史―教祖伝と天理教史― 
 5.教会史と伝道史
  ―教祖を慕う人々の歩み― 
 6.教理史と思想史
  ―思想史としての教理研究史― 
 7.救済史―人類史の更新― 
 8.「つとめ」の実践 
  ―世界の運命を転換する祈り―
 9.「さづけ」の実践 
  ―「わたし」の運命を変える祈り― 
 10.教会論 
  ―現代社会における教会と未来の可能性―
 11.布教伝道 
  ―陽気ぐらしの世界を実現する営み―
 12.社会活動 ―道と社会の接続―
 13.補助教学とは ―宗教研究と天理教学―
 14.天理教学と天理教研究
  ―外からの視座と内からの視座―
 15.まとめ

 それでは、次回はまず「歴史教学」の分野の「教祖伝」から紹介をはじめましょう。「信仰と学問」の関連性を意識しながら、これまで蓄積されてきた教祖伝研究の意義について考えます。


 さらに復習したい人は、このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


 

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