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伝承的教理の役割
教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)を通して伝えられた、親神の教えの根幹を探求する営みは、啓示にもとづく「三原典」を基準にすべきであることは言うまでもありません。
しかし、「原典」の記述はしばしば断片的で、基本的な教理についても多くは、まとまったかたちで説明されていません。このため、和歌や数え唄の形式で表現された、原典の多彩な象徴表現の意味を適確に理解し、そこに説かれた教えの内容を体系的に把握することは決して簡単ではありません。
「おふでさき」を日常的に拝読している人に、「おふでさきには何が書いてあるのですか?」と質問しても、なかなか明確な答えが得られないのはこのためです。たとえば、基本教理である「十全の守護」や「八つのほこり」の説き分けなども原典自体には、まとまったかたちで述べられてはいません。それでは、このような教えの体系的な把握は、どうして可能になったのでしょうか。
こうした教えの全体的な見取り図を考えるうえで、原典とともに重要なのが教祖を通して伝えられた「伝承的教理」なのです。教祖から直接に教えを受けた人々や、その教えを伝え聞いた先人たちの残した「伝承的教理」は、たんに過去を知るための史料であるばかりでなく、原典の言葉の解釈を補い、天理教の教えの理解をより体系的で確実にするガイドラインとなるものです。このため、「伝承」として言い伝えられたり書き残されたりした、教祖のお言葉や説かれた教えは、「原典」とはまた違ったかたちで、天理教の教えを学ぶうえで極めて重要な意味を持っているのです。
伝承的教理と「こふき本」
この「伝承的教理」を代表するのが、いわゆる「こふき本」と呼ばれているものです。明治十三年から十四年頃、教祖は身近な人々にまとまった教理を何度もくり返して説き聞かせました。これが今日、「こふき話」と称されるものです。この教理のお話しは、教祖に代わって親神の教えを取り次ぐ「取次」ないし「取次人」を養成し、仕込むためのもので、教祖は何度もくり返して同じお話を覚えるまで仕込まれたようです。
また、ちょうど同じ頃に教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」と仰せられました。このため、取次と呼ばれた側近の人々は、それぞれに教祖から聞いたお話を書きまとめて提出しています。このことは、当時書きとめられた写本に、次のような記述があることからも明らかです。
「にち/\にをはなしありたその事を くハしくふでにしゆるするなり」
(和歌体十四年山澤本)
こうして書きとめられた写本が、「こうき話写本」とか「こふき本」と呼ばれるものです。
明治十四年に書き記された「十四年本」にはじまり、教祖が現身をかくされる明治二十年まで、多くの写本が伝存しています。明治十四年の写本には、「おふでさき」と同じように和歌体で書き記された「和歌体本」もありますが、多くは散文体で教祖が口述で説かれた教えを書きまとめています。
また、一般的な和綴本の体裁をとった写本ばかりでなく、かなり大きな巻物の写本もあるなど、その体裁はかなり多岐にわたっています。とはいえ、記載された教理の内容自体は、教祖がくり返し話して聞かせたものですので、基本的にはどの写本も内容はほぼ同じになっています。
ただし言い伝えによると、教祖はどの「こふき本」についても「これでよい」とは仰せられなかったそうです。このため、教祖の直筆とされる「おふでさき」や「みかぐらうた」、さらには神の言葉をそのまま書き取った「おさしづ」などに比べて、啓示の直接性は低いと考えられています。しかし、その内容は教祖がくり返して仕込まれた基本的な教理であり、教祖を通して伝えられた親神様の教えを知るうえで、極めて貴重な文献であることは間違いありません。
その内容は、「元はじまりの話」(教祖を通して伝えられた、この世界と生命の創造の説話)を中心に基本的な教理をまとめたものです。明治十四年の写本にはありませんが、明治十六年以後の写本の多くには、「前の部」として教祖の略歴が附記され、とくに立教の経緯について詳しい説明があります。
元はじまりの話が主要な部分を占めるため、古くは「泥海古記」などと呼ばれていました。しかし、原典とともに「こふき本」についても詳しく研究した二代真柱・中山正善氏は、自著の『こふきの研究』のなかで、「こふき」を「古記」と表記するのではなく、「口記」と漢字表記するべきではないか、と提言しています。実際に「こふき本」を手にすると、人間と世界の創造の説話だけが説かれているのではなく、元はじまりの話を中心に、さまざまな基本的教理が順序立ててまとめられていることに気づきます。
「こふき本」のなかで語られる「元はじまりの話」では、この世界と生命の成り立ちを伝えるばかりでなく、この世界のはじまりの時になされた約束にしたがって、教祖が「月日のやしろ」(親神の意志を直接に世界に伝える立場)になったことが強調されています。また、「元はじまりの話」は教祖によって伝えられた「かぐらづとめ」の形式と、その意味を説明する話でもあることが詳しく説かれています。
さらには、「十全の守護」(この世界に遍在する親神のはたらき)の詳しい説明にはじまって、一人ひとりの人間が「かしもの・かりもの」の真実に目覚めて「八つのほこり」を反省し、親神様の思召に沿った生き方ができるようになれば、「ぢば」に据えられた「かんろだい」を中心に教えられた通りの「つとめ」が完成し、神人和楽の「陽気ぐらし」の世界が実現すると説かれています。
※「かしもの・かりもの」➡人間の身体は親神からの「かしもの」であり、人間の側からすれば「かりもの」であるという基本教理。
※「八つのほこり」➡「かりもの」の身体を親神の思召に即して使う/正しく生きるために、毎日の心のつかい方を反省する基準。
※「ぢば」➡元はじまりの時に、人間/生命が宿しこまれた場所。この世界に存在するあらゆる生命の始原の場所。
※「陽気ぐらし」➡教祖の教えにもとづく生き方が広がることによって、実現していく理想世界。
古い写本を朗読すると、当時の教祖の面影を感じて目頭が熱くなることも少なくありません。シンプルな表現のなかに、極めて深い意味を含んだ言葉や表現が多く、簡単にすべてを理解することはできませんが、教祖を通して伝えられた親神様の教えを深く全体的に知るうえで、極めて重要な文献であることは間違いないでしょう。
これらの「こふき本」に記された教えは、教祖が現身をかくされた後に制度化した「別席」の内容に引き継がれるとともに、教祖が取次人に何度もくり返して話し聞かせた伝承の形式は、九回同じ内容の話を聞いて「さづけ」の理を戴く、別席制度の在り方に継承されることになります。
別席と「さづけ」
別席は、「さづけ」(さづけの理)をいただく席を本席と呼ぶのに対して、「さづけ」をいただく前に、取次人から親神の教えを聞くために設けられた席のことです。
明治七年(一八七四)、教祖は赤衣を召されて「月日のやしろ」としての立場を鮮明にされるとともに、数名の方々に「さづけ」を渡されました。
明治二十年(一八八七)に教祖が現身をかくされてからは、飯降伊蔵を「本席」と定めて「さづけ」を渡すことになり、その後は「さづけ」をいただく人の数が増えていきます。このため、明治二十二年・二十三年頃には「ぢば」へ帰ってきた人々が取次人から九回の別席話を重ねて聞き、心に深く教えを治めた者に「さづけ」を渡す制度が確立するようになります。
その後、明治三十一年に「おさしづ」によって別席台本の制定が求められ、お話の内容を統一することになりました。この経緯については、『稿本中山眞之亮伝』に次のように述べられています。
「各人まちへでは、どうもならん。一手一つに、しっかり元の理を諭せ。とのお言葉を頂いて、取次全員、教祖からお教え頂いた処を書いて、眞之亮に提出し、眞之亮の手許に於て、一冊の台本に取りまとめ、親神様の思召を伺うて決定した」(二五六頁)
この時に制定された台本は、真柱の手許に原本を保存し、別席の取次人はこれを借り受けて別席話を暗記し、基本的に同じ内容のお話を取り次ぐことになります。昭和三十一年になって、台本の言葉遣いと文字の一部が改定されましたが、現在も当時の台本の内容が引き継がれています。
このため、別席では同じ台本をもとにした基本的に同じ話を九回くり返して拝聴することになりました。また、「同んなじ事九遍聞かしたら、どんな者でも覚えて了う」(明治三十一年五月十二日)と言われるように、九回の別席のお話は「月日のやしろ」としての教祖を通して伝えられた親神の教えをくり返して聞き、心に治めるための神の言葉です。こうして、別席話の内容を深く心に治めた者に「さづけの理」が渡され、この「さづけ」の取り次ぎを通して、教えを広く世界へ伝えていく形がつくられます。
別席話には、「さづけ」の取次ぎに媒介される布教伝道の場面において、人々に伝えるべき基本的な教理が集約されており、この基本教理をしっかり覚えて心に治めることが、天理教の布教活動や信仰生活の基盤になります。とくに、元はじまりの話、十全の守護、かしもの・かりもの、八つのほこり、教祖の立場、ひながた、といった基本教理が覚えやすい形で語られている別席の内容を心に治めることは、教えの内容を知らない人々に教理を伝え、日常生活のなかで教えを実践していくうえで極めて重要な意味を持っています。
心に治めた教えが血肉になって、自然に生活に滲み出てくるようになるためには、いつでも教えをもとに自分自身を省みることができるように、基本教理をしっかり覚え込むことが大切でしょう。「さづけ」を戴いて「よふぼく」となり、広く世界に教えを伝える立場を与えられた人々には、まず別席を通して基本的な教理を深く心に治めることが求められるのです。
断片的で象徴的に書き残された「原典」の言葉を体系的に理解することを可能にし、教えの全体的な見取図を与えてくれるのは、「こふき」~別席へと連なる、口頭で伝えられたこの伝承的教理の存在です。別席を運んだ人は覚えているはずですが、そこでは十全の守護や八つのほこりの説き分けが詳しく、しかも体系的に説かれています。こうした基本的な教理の枠組みがあって、はじめて原典の研究を教えの体系的な理解に活かしていくことができるのです。
逸話と伝承と教理
さらには、教祖の逸話や伝承として残されたエピソードのなかにも、教理の理解を深めてくれるお言葉が多く残されています。「稿本天理教教祖伝」が編纂された際に、いつか逸話篇と呼べるものを刊行したいという意思は述べられていましたが、昭和51年/教祖90年祭の記念出版として、「稿本天理教教祖伝逸話篇」が刊行されました。教祖の幼少期から現身を隠されるまでの生涯のなかで、のちの人々に語り継がれたエピソードが200編集められています。
もちろん、これらの逸話は多方面において重要ですが、教祖伝の研究について紹介する時間が別にありますので、そちらで詳しく紹介しましょう。
また、教祖と長く苦楽を共にした先人の方々の手記には、貴重な教祖のお言葉がたくさん残されています。なかには、基本的な教理の理解そのものに関わるような貴重な伝承も少なくありません。
辻家文書、梅谷文書、増井りん文書、山田伊八郎文書、高井猶吉聞書などには、教祖の説かれた教えについて、かなり詳しい記述があります。また、これらの先人から教祖の教えやエピソード聞き集めて書き残した正文遺韻(諸井政一)などは、現在の教典や教祖伝などにも内容が反映されています。これらの先人の言行も含めて、貴重な文書類の多くが活字になっていますので、宗教学科の皆さんは、ぜひ在学中に学んでください。
さらには、赤衣、刺繍や細工、教祖所縁の場所など、興味深い遺物や史跡がたくさん残されています。かつて私は、天理時報でこれらの史跡や遺物を歩いて訪ねる連載をしていました。対面授業がはじまれば、ぜひ皆さんとも近くの史跡を訪れてみたいと思っています。
教祖を通して伝えられた教えの根幹を探求する営みにとって、教祖が口述で残された伝承的教理は極めて重要です。宗教学科で世界の宗教思想や天理教の教えを学ぶ人々は、残された資料に積極的に目を通し、より専門的な立場から教理の理解を深めてください。
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