*第1回からの授業をブログに順次公開しています。「ホーム」から閲覧できますので、試験等の準備に役立ててください。
組織神学と組織教学
これまで、春学期の授業ではいわゆる「原典学」の領域に入る研究分野について紹介してきました。ここから残りの時間は、「組織教学/教義学」と呼ばれる分野における研究について紹介していきます。学期末の試験を考えて、紹介される人物の名前や文献のタイトル、基礎的な概念などをしっかり覚えるようにしてください。
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天理教学の研究分野の一つとして「組織教学/教義学」を想定する場合には、キリスト教の神学の一分野である「組織神学・教義学」が意識されています。仏教の場合は、一般に教義学や組織神学のような言葉は使われません。
仏教の経典を「経(スートラ)・律(ヴィナヤ)・論(アビダルマ)」の三種に分ける場合の「論(アビダルマ)=教説の哲学的解釈」が、組織神学に対応するテキストになるかも知れません。しかし、その場合も教えの源泉を仏陀=釈迦のみに限定しない仏教の経典は極めて多様であり、ある特定の権威あるテキストをもとに教説を体系的に展開する組織神学・教義学とは似て非なるところがあります。このため、「原典」を教えの究極的なリソースとする天理教の教えの体系的な説明は、しばしばキリスト教の神学をモデルとしてきました。
*仏教やキリスト教については、2年次以降の講義でより深く学びます。
キリスト教の神学では、「組織神学」は聖書を絶対的基準として、教会の歴史的遺産である信条/信仰基準(使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条、アタナシオス信条など)を参考にしながら、聖書に啓示された真理を体系的に提示し、教会形成や伝道に資することを目的とする学問です。
ここで「組織的」(systematic)と言っているのは「体系的」とほぼ同義であり、神の言葉/真理について体系的に考える神学といった意味になるでしょう。とくにプロテスタント系の神学者たちは、「組織神学」と題する著作をたくさん刊行していますが、個人的にはパウル・ティリッヒやヴォルフハルト・パネンベルクといった、20世紀の神学者たちが著した「組織神学」に関心を持っています。また、近年ではチャールズ・テイラーのような、カトリック系の思想家も極めて興味深い著作を発表していますので、ぜひ図書館で手に取ってみてください。
いま、ここに生きている私たちにとって、私たちが信じる神の教えはどのような意味を持っているのか。こうした「問い」について、人間の本質や世界の現状に関する幅白い知識や学術的な分析を背景に深く考え続けていくことは、キリスト教や仏教や天理教といった宗教伝統の差異を超える、極めて重要な人間の知的営為です。ちなみに、「考えていく」ではなくて「考え続けていく」としたのは、「答えを出す」ことが体系的な神の存在や神の言葉の探究の目的ではなくて、現実を直視して「問いと向き合う」ことが、この知的営為の本来の目的であるからです。
キリスト教の組織神学は、一般に教義学とイコールではなくキリスト教倫理学と弁証論/護教論を含むと考えられています。しかし、基本的人権や思想信条の自由を前提とする現代社会やこれからの世界においては、特定の視座に縛られた倫理学や弁証論/護教論は、あまり意味をなさなくなるでしょう。もし、天理教の組織教学にもキリスト教の組織神学のように倫理学や弁証論が必要とされるとすれば、それは天理教人間学と呼ばれるようなものになるはずです。
➡特定の信仰ではなく、宗教一般の弁証論/世界レベルの倫理学
これからの時代に生きる人たちに信仰の価値を伝えるためには、現代における宗教/信仰の必要性について人間の本質に立ち返って議論する、いわば「宗教」の護教論が求められるでしょうし、倫理規範について議論する場合には、人類全体にとっての世界レベルの倫理について考える必要があります。
特定の信仰の立場だけを擁護する護教論や特定の人々の生活規範に偏った倫理は、グローバル化が進み自分の国や文化の未来ではなく、人類の未来が語られるようになった時代にはもう必要とされません。また、教祖の教え自体が、偏狭なナショナリズムや差別意識とは無縁です。
天理教の信仰をもとに、これからの時代の人類にとって、なぜ宗教/信仰は必要なのか、という問いと真摯に向き合い、説得力のある答えを見つけていくことが大切です。さらには、教祖の教えや「ひながた」をもとに、全人類に普遍的な世界レベルの倫理について考えていくことが求められています。
天理教の組織教学/教義学
このため「組織教学」の中核は、天理教の場合にも「教義学」になるでしょう。ただし、天理教の場合は「教義」とされるものが、教会組織の権威において裁定されるまでに長い時間がかかりました。
現行の『天理教教典』が刊行されたのは昭和24年のことであり、教祖が現身をかくされてから、すでに60年以上経っていました。とはいえ、キリスト教の場合は最初の公会議である第1ニカイア公会議(325年)までに、300年以上の時間が経過していますし、仏教の場合も釈迦の死後すぐに主な弟子たちが集まって、基本的な教えや戒律などを確認したとする伝承はありますが、公会議に匹敵するような集会(結集)が行なわれるのは、仏滅から100年ほど経過した時期のこととされています。それと比べるなら、『天理教教典』の成立はそれほど遅くはないのかも知れません。
*現身をかくす・・・教祖が逝去すること。教祖は「存命」のままであると信じられているため、この表現が使われる。
現行の『天理教教典』よりも前に、明治36年(1903)に編纂された『天理教教典』は、戦前に天理教が一派独立請願を進める過程で編纂したものでした。編纂の中心になったのは、神道学者の井上頼圀と逸見仲三郎(主に逸見)であり、天理教の教えと異なるとまでは言えませんが、原典や伝承に残された教祖の教えを忠実に反映したものとは言えませんでした。
*明治36年編纂の『天理教教典』は、しばしば「明治教典」と呼ばれて現行の教典とは区別されています。
以前の授業で、少し紹介したような歴史的背景のもとで「原典」が公刊され、教祖の教えに忠実な教典を編纂しようとする動きはありましたが、これも戦時下の厳しい状況のもとで後退を余儀なくされ、戦後数年が経過して、ようやく現行の『天理教教典』が裁定されたのです。天理教教典の扉裏には、以下のような裁定文が記載されています。
「本書は おふでさき みかぐらうた 及びおさしづに基き 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する」
現在の『天理教教典』は、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」を原典とし、そこに示されている親神の思召を体系的に説明した教典なのです。さらに本書は、天理教教規の定める所に従って天理教の教義を明示したものであり、その意味で、規準とすべき正統的教説であって、天理教教会本部がその権威と責任において提示する組織化された教えの大綱であると見なされています。
とはいえ、あくまでも「教典」は原典に基づいて編述された組織的・体系的な教えの説明であり、その正しい理解のためには、つねに原典への遡及が求められます。こうした意味で、教典は原典への手引書としての役割をもつことにもなりました。
昭和23年10月28日より30日まで行われた、第13回 教義講習会において『天理教教典稿案』が取り上げられ、細部に及ぶ内容の説明と討議が行われます。この講習会の記録は、天理教教義及史料集成部編『天理教教典稿案講習録』(天理教道友社、昭和24年)として刊行されていますが、この時の議論を始まりとして、今日に至るまで多くの天理教教義学研究が出版されてきました。
歴代の宗教学科の教授陣は、初代学科主任の諸井慶徳先生をはじめ、深谷忠政先生、中島秀夫先生、松本滋先生、澤井義次先生など、代々天理教教義学に関する著作を刊行してきました。宗教学科に学ぶ皆さんは、在学中にこれらの本は必ず手に取って学んでください。
天理教における「教義学」は、厳密に言えば正式な教義というものが明文化されて教会本部の権威において裁定された、現行の『天理教教典』の刊行によって、はじめて成立することになります。
しかし、昭和24年以前にも教祖の教えを組織的・体系的に説明し、同時代に生きる人々に教えを発信する営みは広く行われていました。これら教義の裁定以前の組織教学の営みについても、ある程度は目配りしていくことが大切です。
明治から大正、昭和の初期くらいに執筆された教理の解説書などにも、現在に共通する課題が論じられていてしばしば驚きますし、現代の問題を考える新たなヒントを得られることが少なくありません。
組織教学/天理教人間学の可能性
天理教の場合にもキリスト教と同じように、組織神学のなかに教義学以外の領域を設ける必要があるかどうかは、今後議論を重ねていく必要があるでしょう。
「天理教に道徳神学はあるのか?」といった問題については、すでに諸井慶徳先生が議論していますし、これも諸井先生の著作である『人間完成の道としての天理教』には、現代世界に生きる人間にとっての宗教の存在意義から議論をはじめて、天理教の教えの意義を説く営みがすでに見られます。これらの議論を発展させていくことが、今後の組織教学の大きな役割になっていくでしょう。
具体的に言えば、人間の本質を問う最新の知見を背景にして、今日における宗教/信仰の意義と現代社会における宗教の役割を確認し、そのうえで教祖の教えを信じて生きることの意味を問い直すような営みが必要とされるでしょう。
先ほども少し述べましたが、グローバル化が進んで異文化や異社会間の交流が頻繁になり、他者の理解と基本的人権を尊重する意識が一般化した21世紀の世界において、自らの宗教伝統の優位性を他宗教に対して主張することは、あまりポジテイブな議論ではありません。むしろ、場合によってはネガテイブな結果を生むこともありえます。
これからの時代の護教論や弁証論に求められているのは、自分たちの教えの弁証ではなくて、「宗教」や「信仰」自体の弁証であり擁護でしょう。こうした「宗教」の弁証論があって、はじめて天理教の弁証論も可能になるのです。これからの時代に生きる人々に対して、神や究極的な真理の存在を信じて生きることの意味を問いかけるような、新しい言葉を紡いでいくことが、どの宗教伝統に属する教義学者にも必要とされている、大切な役割の一つではないでしょうか。
また、21世紀の道徳神学は、一つの民族や国家、文化の枠組みなどに限定されるようなものであってはならないでしょう。たとえ、天理教やキリスト教のように限定された宗教伝統から生まれたものであったとしても、それはどの社会や文化に属する人々にとっても普遍的に受け容れられていく規範でなくてはならないはずです。
古代や中世の時代を通過してきたキリスト教や仏教の倫理規範のなかには、かなり性別や人種、社会的地位などに関する偏見や差別を助長するようなものがあります。古い時代には常識であったことが、200年、300年後の社会では通用しない、といったことはむしろ当然です。
こうした課題について、多くの宗派や教派は自己批判を通して従来のあり方を改めて、新たな時代に向けて脱皮を図ってきました。これらの足跡に学びながら、これからの時代に生きる人々に、あるべき人の生き方のモデルを示していくこともまた、21世紀の教義学者に求められている役割の一つであると思います。
これらの営みは、いま、ここに生きるすべての人たちにとって、人生の問題に向き合う力を与えてくれるような、現実的で実践的な思索でなくてはならないでしょう。こうして、教義学の営みには観念の遊戯ではなく、臨床教義学ともいうべき具体性が求められていくことになるのです。
次回からは、天理教の組織教学/教義学のこれまでの成果を分野別に紹介しながら、これからの課題と可能性について、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
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