前回の講義では、組織教学の概要と可能性について説明しました。本来であれば、これまでの議論の蓄積について詳しく説明し、これからの展望を述べるべきですが、限られた時間では人の名前や本のタイトルを簡単に紹介する程度しかできません。
天理教学の営みは、キリスト教や仏教の神学や宗学ほど長い議論の蓄積と多岐にわたる知的伝統に支えられてはいませんが、それでも参照すべき研究成果は残されています。この講義で概略を学んだ皆さんは、それぞれにこの大まかな地図を片手に自分の目的地を訪ねて、教学研究の可能性を広げてください。
今回は、教祖論の研究について紹介します。
組織教学と教祖論
天理教の組織教学にとって、教祖論が極めて重要なテーマであることは間違いありません。キリスト教において、教祖論であるキリスト論は組織神学の要となるものであり、救い主であるイエスの人性と神性をめぐって、古代のキリスト教会は神学論争を繰り広げ、三位一体(神・子・聖霊)の教説を生みだします。また、イエスの言行に示された人類への愛は、救いの証として重視されました。
仏教においては、仏身論という「仏陀」の本質に関する議論が、多様な仏教思想が生まれる素地になりました。宇井伯寿のような先学が指摘しているように、とくに中国から日本にかけての大乗仏教文化圏では、仏身論が仏教思想の最も重要なテーマになります。
現在から2,500年ほど前のインドに生まれ、仏陀(真理を悟った人)になった釈迦牟尼/釈尊は、仏陀になって生死や時空を超越する存在になります。また、釈迦の悟った真理は永遠にして不変であるので、歴史的に存在した人物(色身/応身)ではなく、この永遠にして不変の真理(法/法身)こそが仏陀の本質である、とする二元論的な仏陀論が展開します。さらには、この世界に普遍的に存在している真理が仏性を有する存在を通して顕現し、救いの可能性が実現する姿(報身)が説かれるようになります。
どちらの場合も、500年から1,000年といった長い時間の議論を経て形成された見解であって、簡単に天理教の教祖論と結びつけることはできません。しかし、天理教のこれまでの歴史とこれから数百年、数千年の歴史の可能性を考えるとき、教祖論が歴史的な思想の展開の中核になっていくことは間違いないでしょう。
個人的には仏教の仏身論に興味を持っていますが、世界のさまざまな宗教伝統の歴史的展開に関心を寄せることは、天理教の教えの先行きを考えるうえで、とても大切なことだと思います。
天保9年10月26日、「月日のやしろ」と定まった教祖は、その姿かたちは人間でありながら、内的本質においては神的存在となり、その本質をもって、親神の救済意志と救済実現の筋道を明かし示すことになりました。少なくとも、信仰上はそう考えられています。
キリスト論との対比で考えれば、まず教祖(おやさま/中山みき)は人であるのか、それとも神であるのか、といった問題があります。天保9年以来、教祖の人性はどうなったのか。
教祖伝の記述を見ると、人間としての立場との葛藤もあったのではないか、と感じる記述も少なくありません。これについては、たとえ神のやしろという立場になったとしても、人としての苦しみや悲しみを乗り越えて、親神の思召を実現していく姿を示したことを重視する見方があります。
「月日のやしろ」である教祖は、寒さも暑さも感じない存在になったのだとすれば、明日食べる米もないという苦しい生活のなかにあって「水を飲めば水の味がする」と周囲の方々を励まし、更に勇んで困窮する人々に施しを続けるエピソードは、胸に迫るような逸話にはならないでしょう。
このあたりは、仏教やキリスト教のように、長い時間を経て形成された仏伝や聖書の記述とは違う部分です。
仏教の経典は、基本的に仏陀の言行録になっていますが、「仏教は神を立てない」という一般的な印象とはかなり違って、仏教経典のなかの仏陀はむしろ神のような超自然的存在として描かれています。さらには、後に仏像が造られるようになるとギリシアの神々のように礼拝される対象になりました。教祖である仏陀自身が、真理と一体化した存在、あるいは真理そのものとして神格化されていきます。
また、キリスト教の教会に足を運び、十字架を目にしたことのある人であれば―もちろん、教派によって様式は異なりますが―誰でもイエス・キリストの神性がキリスト教徒にとって重要であることを実感するでしょう。建物のなかに礼拝の対象が存在しない、イスラームのモスクを訪れたなら、ムハンマド(マホメット)とイエスの立場の違いがよく分かります。
天理教教会本部では、ぢばの地点において親神・天理王命を拝し、その北側に教祖のお住まいである教祖殿が在ります。このかたちのルーツは、明治二十一年七月二十四日(陰暦六月十六日)の「おさしづ」に「二つめどう」とあることでしょう。各地の教会においても親神様と教祖は、一体化したかたちで礼拝されてはいません。しかし、『天理教教典』には「実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される」とあります。
「天理王命」と「ぢば」と「教祖(おやさま)」は、どのような関係にあるのか。信仰上は、それをただそのままに受け容れるべきでしょうが、こうした課題について実証的な根拠をもとに合理的で論理的な議論を積み重ねて行くことが、組織教学としての教祖論の大切な役割になります。簡単に結論を出すのではなくて、100年、1,000年といった時間を意識しながら、考え続けていくことが大切ですし、自分なりの答えを見いだす努力を続けていくことが大事です。
仏教、キリスト教、イスラームにおいても教祖論の展開は、それぞれの宗教伝統が浸透する地域の文化や人々の生活に多大な影響を及ぼし、教祖論をめぐる議論の対立は、しばしば歴史を動かす要因の一つになってきました。500年後、1,000年後の未来に思いを馳せるとき、現時点において天理教の教祖論にしっかり向き合うことは、やはり重要なことではないかと感じます。
もちろん、この分野の研究成果はかなり古い時期から蓄積されていますが、深谷忠政先生の導入的な序説がありますので、まず手に取ってみてください。➡『天理教教祖論序説』
『稿本 天理教教祖伝』と教祖論
教祖論の各論は、立教以来の教祖の営みに即して考えていく必要があります。『稿本天理教教祖伝』(天理教教会本部が刊行する教祖伝)は、第1章「月日のやしろ」冒頭の立教の宣言から始まっています。
教祖(おやさま/中山みき)の伝記であるのに、出生の出来事から始まるのではなくて、41才で「月日のやしろ」(親神の啓示を伝える立場)となられた出来事から教祖伝は始まっています。これは、古い教祖伝の記述のパターンに従った部分もあるとは思いますが、やはり「月日のやしろ」としての教祖の立場を強調しているのではないでしょうか。
『稿本 天理教教祖伝』構成
第一章 月日のやしろ
第二章 生い立ち
第三章 道すがら
第四章 つとめ場所
第五章 たすけづとめ
第六章 ぢば定め
第七章 ふしから芽が出る
第八章 親心
第九章 御苦労
第十章 扉ひらいて
立教(教祖が「月日のやしろ」となったこと)以前の「生い立ち」については、第2章に描かれています。第3章の「みちすがら」以降は、再び「月日のやしろ」となられたあとの出来事が記述されていきます。初期の出来事では「貧に落ちきる」行為や「をびや許し」による道明けなどが、教祖論にとって重要になってきますし、これまでもこれらのテーマについては多彩な議論がなされてきました。
つとめ場所の普請から「大和神社のふし」といった一連の出来事は、教祖の教えの説き方を考えるときに重要です。また、戊辰戦争に揺れる激動のなかで「つとめ」の地歌と手振りを教え「おふでさき」の執筆を始める教祖の姿勢には、「月日のやしろ」の教えの厳粛さを感じます。
さらには、急速な教えの広がりと当時の社会状況の重なり合いによって、教祖が頻繁に警察や監獄所へ「御苦労」される姿には、教祖の揺るぎない神一条の信念と親神の教えを世界に広げようとする強い意志を感じます。
*個々の内容については、天理教教祖伝概説の授業でしっかり学んでください。
さらには、教祖論と最も深く関わる事柄としては、明治20年陰暦正月26日(西暦2月18日)に教祖が現身をおかくしになり、その後「存命の理」によって、生前同様に働かれることになった出来事が重要です。
*現身をかくす・・・教祖が逝去すること。教祖は「存命」のままであると信じられているため、この表現が使われる。
イエスの伝記における「復活」と「昇天」や仏陀の伝記における「入滅」と「涅槃」のように、教祖の「現身おかくし」と「存命の理」は、天理教の教祖論の中核になるでしょう。明治20年の現身おかくし以降は、ご存命の教祖の存在を前提として「おさしづ」が教示されることになります。
教祖伝の具体的な研究については、秋学期の歴史教学のところで詳しく紹介します。興味のある人は、まず『稿本天理教教祖伝』が刊行された際の講習会である「第16回教義講習会」の講習録を参照してください。抜粋された内容が、道友社から刊行されています。宗教学科で学んだ人は、絶対に書棚に並べて欲しい本の一つですので、ぜひ蔵書に加えてください。
教祖の立場と教祖論
天理教の教祖論の中核になるのは、いわゆる教祖の三つの立場です。教義学としての教祖論においては、まずこの基本的な教義―天理教教会本部の権威において裁定された、正当な教説―を前提にして、教祖論について考えていくことになります。
まず、一つ目の立場は①「月日のやしろ」です。
天保9年(1838)10月26日、教祖は「月日のやしろ」に定まりました。「おふでさき」には、
いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や 十二号 67
しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている 十二号 68
とあります。「月日のやしろ」となった後の教祖の言行は、親神・天理王命の意思を直接に伝えるものであって、これまで人間には知ることのできなかった「真理」の顕現なのです。
つまり、教祖の存在は絶対無限なる親神の思召が、有限相対である人間にもたらされる通路(ポロス)なのであり、だからこそ天理教は【啓示宗教】であると主張しているのです。
次は、②「ひながたの親」の立場です。
41才で「月日のやしろ」になられてから、90才で現身をかくされるまで、教祖は50年及ぶ具体的な行為を通して、「万人のひながた」(モデル)となる正しい人間の生き型を示されました。この「ひながた」を通してはじめて私たちは、教祖は「月日のやしろ」であり、そのメッセージは神の言葉であると信じることができるのです。
自分は「神」であると語ることは誰にでもできます。しかし、周囲の人々に「あの人は神である」と見なされるような生き方することは、教祖以外に出来るとは思いません。教祖の「ひながた」によって、「本来あるべき人間のあり方」(神一条/たすけ一条)が具体的に示されたことによって、全人類の救済の可能性が開かれるのです。
「ひながたの親」という教祖の立場は、【救済宗教】としての天理教の性格をよく表しています。
さらには、③「存命の理」の立場があります。
明治20年(1887)旧暦正月26日、教祖は90歳で現身をかくされました。
しかし、「おさしづ」に「さあへこれまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日々の道を見て思やんしてくれねばならん」とあるように、現在も教祖は存命のまま、現身をかくされる以前と変わらずに働いていると信じられています。
このため、教祖殿では生前と同様に教祖のお世話をさせていただき、朝のご挨拶、朝づとめ、朝食、お四つ、お八つなどの時間を設けるとともに、「さづけ」、「証拠まもり」、「をびや許し」、結婚式といった御用をおつとめいただいたあと、さらに夕食、入浴、ご就寝まで、存命の存在としてお世話をしています。
「月日のやしろ」である教祖によって啓かれた「親神の教/世界の真実」への通路は、「ご存命」の教祖の働きを通して、現在も啓き続けているのです。
教祖存命の理は、天理教が【生きた信仰】であることの証なのではないでしょうか。
こうした教祖の立場について考えることは、教祖を身近に感じる機会であると同時に、自らの信仰者としてのあり方を見つめ直す機会にもなります。何か特別な営みではなく、信仰者としての毎日の生活のなかで、考え続けていくべき課題ではないでしょうか。
私自身も定期的に、『稿本天理教教祖伝』をくり返して何度も拝読しています。皆さんも在学中に、せめて一度は通読して教祖の存在ついて考えてみてください。