信仰的真実と信仰的行為
前回は、教祖論についての講義でした。教義の上では、教祖は「ご存命」であると教えられていますし、教祖殿では食事や入浴なども生前同様の世話取りがなされています。しかし、たとえ教祖殿へ出向いても、実際に教祖にお会いすることはできません。
とはいえ、身近な人が病に苦しんだり突然の事故に会ったりしたとき、当人に「さづけ」を取りついだあと教祖殿に足を運んで祈りを捧げている際に、教祖はやはりご存命であると実感することがあります。
私自身は、もう何年も毎日教祖殿に足を運んで、教祖にご挨拶をしてから一日をはじめるようにしています。その間に、存命の教祖の存在やはたらきを実感した―というより、実感したように感じた―ことは、何度もありました。
しかし、この実感に証拠はありません。昨日と同じように今日も教祖殿に足を運び、教祖にご挨拶したときに、自然と感じるものです。きっと明日の朝、また教祖殿に足を運んだときにも、また別なかたちで実感できるはずだと思っています。
信仰的な真実は、つねに信仰的な行為とともにあります。この信仰的な真実を言葉で説明することは容易ではありません。しかし、その困難な営みに取り組むことが、「信仰の学」である天理教学(とくに組織教学/教義学)の役割なのです。
神・月日・をや
今回のテーマは、天理教の神観念と世界観です。かなり抽象的な表現もでてきますが、組織教学/教義学の要になる部分ですので、基礎的な言葉や概念くらいは覚えるようにしましょう。
天理教の神観念について考える場合に、まず基本になるのは、やはり「おふでさき」です。教祖(おやさま)が親神の思召を受けて、直接に筆を執って書き記された「おふでさき」は、天理教の教えについて考える場合に最も重要なテキストです。
最初の方の授業で紹介したように、具体的には「筆、筆、筆を執れ」と耳に聞こえて、筆を持つと手がひとり動いた、と伝えられていますので、教祖の直筆である以前に「おふでさき」の内容―少なくとも信仰的に―は、親神の直接の教示であるということになります。つまり、多くの場合に「おふでさき」の語りの主体は、教祖ではなく親神であるということです。
それでは、その「おふでさき」において語りの主体は、どのように表現されているのでしょうか。
たとえば、ある大人の男性が小学校低学年くらいの子供に話かけている光景を思い浮かべてください。その男性が「お父さんは・・・」と子供に話しかけていれば、その男性は子供の父親であって、二人の関係は親子であることが分かります。もし、男性が子供に「先生は・・・」と話かけていれば、二人は担任の先生と生徒なのかも知れません。
このように、発話の主体の名称は「発話者」の「属性(あるものに共通して備わっているとされる性質や特徴)」を知るうえでかなり決定的な意味を持ちます。「おふでさき」の語りの主体は、基本的に親神ですので、「おふでさき」のなかで話し手がどのように表記されているかを明らかにすれば、親神の属性/天理教の神観念を知る手がかりになるはずです。
天理教の二代真柱・中山正善氏は、この話し手の自己言及に注目して「おふでさき」を研究し、全17号のなかでその表記がまず「神」から「月日」へ、さらに「をや」へと移り変わっていくことを明らかにしました。
具体的には、第6号の半ばくらいまでは「神」の表記が使われ、ちょうど教祖が赤衣を召された頃のお歌から第14号のはじめまでは「月日」、それ以後は大体「をや」の表記が使われています。第17号では「神」と「月日」に戻りますが、「月日」から「をや」へと名称が変わる際には、
いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで(ふ14:29)
と、記しています。
ここでは、明確に名称変更の意志が表明されていますので、「おふでさき」全体を通して、意図的な名称の変更がなされていることは間違いないでしょう。
また、このことから「おふでさき」全17号は、単体の和歌を1,711首集めた歌集ではなくて、そこには全編を読み通すことによって理解できる共通した思召があると考えられました。
元の「神」・実の「神」
それでは「神」という名称は、どのように表記されているのでしょうか。「おふでさき」の前半では、「○○の神」というように、さまざまな表現がなされています。しかし、それぞれに共通する意味を考えると、ほぼ「もとの神」と「じつの神」に集約することができます。
このため、『天理教教典』や『稿本天理教教祖伝』に記載された立教の宣言は、古い文献では「我は天の将軍なり」と記録されているものが多いにも関わらず、「我は元の神、実の神である」という表現になっているのです。
まず、①「もとの神」のカテゴリーに含められる「おふでさき」のお歌をいくつか紹介しましょう。
いまゝでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから 三号 18このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい 三号 15このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし 一号 43
これらのお歌からは、親神は人間と世界を創めた創造神であること分かります。親神は「もとこしらゑた神」であるとともに、「このよふのにんけんはじめもとの神」であり、だからこそ、教祖を通して伝えられるその神の言葉には「せんに一つもちがう事」はないのです。難しい表現を使うと、第一原因としての神には「無謬性」がある、といった言い方になります。
*世界と生命の創造者・第一原因・・・無謬性
また、
このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり 四号 62
とあるように、この世界と生命を創造した親神と人間の関係は親子であるとして、創造者である親神と人間の「連続性」が強調されています。しかし、次のお歌にあるように「もとの神」は、教祖が現れるまでは「かくれたる神」でした。
このよふを初た神のぢうよふを みせたる事ハさらにないので 四号116
「もとの神」の存在は、教祖を通してはじめてわたし達人間に伝えられたのです。
さらには、
ほふやとてたれがするとハをもうなよ このよ初た神のなす事 五号 39
とあるように、「もとの神」は「全能」の存在であり(全能性)、
このよふを初た神の事ならば とのよな事もみなみゑてある 十二号 40
とあるように、すべてを見抜き見通す「全知」の存在であると言われています(全知性)。このような「もとの神」が、「いまゝでにない事」すなわち、この世界の真実を教祖を通して世界へ伝える、とされています。
*人間と親神の連続性・かくれたる神・全能の存在・全知の存在
次に、②「じつの神」に区分けされるお歌は、以下のようなものです。
しんぢつの神がをもていでるからハ いかなもよふもするとをもゑよ 三号 85
「しんぢつの神」は、教祖を通して世界に現れて「いかなもようもする」言われています。これは、親神の動的側面(顕現者)を表すお歌です。
また、
しんぢつの神のざんねんはれたなら せかいの心みないさみでる 四号 35
とあるように、親神は世界と人間のあり方に変革をもたらす存在です。この世に現れた親神のはらたきを通して人々が世界の真実に目覚めるとき、世界は本来あるべき姿に変わっていきます。
そして、
しんぢつの神のはたらきしかけたら せかい一れつ心すみきる 五号 49
とあるように、この親神のはたらきによって、人間はその本来与えられている可能性/陽気ぐらしを実現できます。創造者である「もとの神」が、教祖を通してこの世界に現れた「じつの神」として、現実的な変革をこの世界にもたらすのです。
教祖を通してこの世界に顕現した親神によって、現実の世界は変革されて、本来あるべき陽気ぐらしの世界が実現していく、と教えられています。
*顕現者・世界の変革者・救済者としての親神
「もとの神」、「じつの神」という名称/概念によって表わされているのは、創造の神による救済の実現過程であるということができるでしょう。
月 日
「おふでさき」では、
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ 三40・135
とあるように、この世界自体が親神の「からだ」であり、世界は親神の守護に満たされて存在するとされています。この世界と親神の関係について、端的に表している名称が「月日」です。天上に輝く月日のように、親神の守護はつねに変わらず、遍くこの世界を照らしています。
*親神の守護:創造・育成・救済という親神のはたらきのすべてを表す言葉。
この親神の守護に満たされた世界のなかで、すべての人間は今日一日を生かされて生きているのです。このことは、「こふき」や別席の話のなかで、「十全の守護」にまとめて説かれています。「十全の守護」については、天理教の人間観のところで「かしもの・かりもの」の教理とともに詳しく説明します。ここでは、親神と人間、あるいは「身体」としての人間と世界の連続性を確認するだけにしておきましょう。
「おふでさき」によれば、親神はこの世界と生命を創造した存在であるばかりでなく、現在この世界に存在する、すべての生命の営みすべてを維持する「守護者」でもあります。この守護者の側面については、すでに紹介した伝承的教理のなかで、体系的に説明されています。ここでは、『天理教教典』の記述を簡単に紹介しておきます。
くにとこたちのみこと:人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。をもたりのみこと:人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。くにさづちのみこと:人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。月よみのみこと:人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。くもよみのみこと:人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。かしこねのみこと:人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。たいしよく天のみこと:出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。をふとのべのみこと:出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理。いざなぎのみこと:男雛型・種の理。いざなみのみこと:女雛型・苗代の理。
ここで10種/十柱神に分けて説明されている、現在の世界と人間の生命を維持する親神の守護は、10の神々のはたらきではなくて、親神のはたらきを十種の機能に分けて説明していると理解すべきでしょう。
この親神の守護は、この世界と人間が創造された瞬間から現在まで、切れ目なく続いてきましたし、これからもそのはたらきは続いていきます。皆さんが眠っている間も心臓は動いていますし、地球の自転は切れ間なく続いています。
このことについては、「おふでさき」6号の81~88に集約的に述べられています。
月日よりしんぢつをもいついたるわ なんとせかいをはじめかけたら 六号 81ないせかいはぢめかけるハむつかしい なんとどふぐをみたすもよふを 六号 82みすませばなかにどぢよもうをみいも ほかなるものもみへてあるなり 六号 83そのものをみなひきよせてたんぢやい にんけんしゆごはぢめかけたら 六号 84ないせかいはじめよふとてこの月日 たん/\心つくしたるゆへ 六号 85このみちをしりたるものハさらになし 月日ざんねんなんとをもうぞ 六号 86こらほどにをもてはじめたこのせかい 月日の心なんとざんねん 六号 87月日よりたん/\心つくしきり そのゆへなるのにんけんである 六号 88
「月日よりたん/\心つくしきり」とあるように、変わることのない親神の守護に満たされた世界のなかで、あらゆる生命の営みが絶え間なく繰り返されてきました。そして、その積み重ねのうえに現在の私たちの生活の営みがあるのです(「そのゆへなるのにんけんである」)。
「おふでさき」には、この「育成者」である親神が、教祖を通してこの世の表へ現われ、人間には知ることのできない、この世界の真実を伝えるとされています。
月日にわせかいぢううをみハたせど もとはじまりをしりたものなし 十三号 30このもとをどふぞせかいへをしへたさ そこで月日があらわれてゞた 十三号 31
教祖を通してこの真実が世界に伝えられることによって、人間ははじめて当たり前に存在している現前の世界と日常の生活は、この世界のはじまりの時から親神の守護に支えられてきたことを知ります。天理教の信仰者が、何気ない日常の出来事にもしばしば感謝の表現を使うのは、こうした教えが背景にあるからです。
*人間と世界と親神の連続性・守護者・育成者
「月日」という名称によって表されているのは、親神の守護に満たされた世界のなかで「生かされて生きている」人間と、守護者・育護者としての親神の連続性ではないでしょうか。
を や
「おふでさき」第14号29に、次のようなお歌があることはすでに紹介しました。
いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで 十四号 29
これまでは、「月日」の名称のもとで「おふでさき」を書き記してきたが、「けふからハなまいかゑる(名前を変える)」としています。このお歌には、次の3首が続きます。
けふまでハたいしや高山はびかりて まゝにしていた事であれとも 十四号 30これからわをやがかハりてまゝにする これそむいたらすぐにかやすで 十四号 31けふまてもをやのさねんとゆうものわ 一寸の事でわないとをもゑよ 十四号 32
第14号が執筆された明治12年頃は、日本の歴史では明治政府が大教院(国民思想の統一を目ざした明治政府の大教宣布運動の中央機関)を解散して、名目上の信教自由が認められるようになった時期です。しかし、同時期には自由民権運動の高揚などを背景にして、宗教活動を含めた民衆運動へのさまざまな規制が強まりました。このため、教祖はこのあと何度も警察等へ「ご苦労」をくり返されることになります。
もちろん、14号以前にも「をや」の表記は頻繁に使われていますし、17号にはまた「神」と「月日」が名称として使われます。しかし、少なくとも第14号・15号・16号には、「をや」を発話の主体とするお歌が頻出します。
にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもをてしやんしてくれ 十四号 34にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる 十四35
ここでは、「をや」という名称によって人間と親神のより深い関係性が説かれています。
親神の思召に沿わない人間と世界のあり方について、「をや」である神は「さねん(残念)」であるとし、この世界と人間を「たすける」―すなわち、親神の思召に沿った人間と世界のあり方である「陽気ぐらし」を実現する―ことこそが、親神の望みであることが明確にされています。
*「子どもをたすける親心」と「さねん」
また、
せかいぢうわをやのたあにハみなこ共 かわいあまりてなにをゆうやら 十四号 52このせかい高山にてもたにそこも をやのたにわこ共はかりや 十四号 53
というように、親神と人間の関係は「親と子」の関係であって、すべての人間はその意味ではまったく同列であり、平等であるということが強調されています。
*親子の関係性と子の同質性
さらには、
このたびわなんてもかてもしんぢつの をやの心をしらしたいから 十四号 54このみちハをやがたのみや一れつわ どふそしいかりしよちしてくれ 十四号 56それからハをやの心がいさみでゝ とんな事でもはじめかけるで 十四号 59
というように、すべての子どもを「たすけたい」という親心を世界に伝えていく具体的な道筋について述べられています。
*「をや」による救済・・・具体的な道筋
そして「をや」である親神は、子どもである人間のあり方をつねに見守り、守護しているとされます。
をやのめにかのふたものハにち/\に だん/\心いさむばかりや 十五号 66をやのめにさねんのものハなんときに ゆめみたよふにちるやしれんで 十五号 67
だから、教祖の教えに触れた人たちは、「をやのめ」に適うあり方を求めて、しっかり毎日を生きることが大切なのです。
*親子の相互関係
もちろん、「をや」という名称で述べられている親神の思召は、「神」・「月日」の名称のもとで述べられている思召と共通していますし、内容はほとんど重なっています。しかし、「をや」という名称を発話の主体にすると、全体にお歌のニュアンスが変わってきます。次のお歌は、その代表的な例ではないでしょうか。
月日よりないにんけんやないせかい はじめかけたるをやであるぞや 十六号 53
何もないところからこの世界と生命を創造した親神は、いわゆる創造主というような存在ではなく、世界をつくり、そこに産み下ろした生命を見守り、育ててきた「親」なのです。
「をや」という名称で表されているのは、親神と人間/世界の関係は、時計を組み立ててねじを巻く時計職人と時計のように無機質な関係ではなく、互いのあり方が相互に影響しあう有機的な関係である、ということです。
親子の関係であれば、古くなった機械を廃棄するように、創造物を簡単につくり直すことはできません。だから親神は、教祖を通して伝えた世界の真実をもとに、子どもである人間が自らの意志で世界を本来あるべき「陽気ぐらし」の世界に転換し、神人和楽の世界を実現することを望まれるのです。
閑話休題
このようなかたちで、発話の主体を意識しながら「おふでさき」の内容を確認していくと、そのお歌の数は膨大になります。この短いブログのなかで、すべてを紹介することは不可能です。「神」「月日」「をや」の名称を意識しながら、皆さんが「おふでさき」を拝読する際に、自分自身で確認してみてください。
こうしたことを意識しながら「おふでさき」を拝読すると、少しずつ個々のお歌ばかりでなく、全体の内容についても考えるようになるはずです。ここで学んでいることが、そうした意識の変化を生むきっかけになって欲しい、と願っています。
ここでは、従来の組織神学/教義学の議論を踏まえながら、親神の属性を「おふでさき」の記述をもとに簡単にまとめてみました。この「親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る」と『天理教教典』第4章には記されています。礼拝対象としての「天理王命」の名称や「天理教は一神教か、多神教か」といった教学/神学上の議論については、また別の機会に紹介します。天理教の神観念に興味のある人は、とくに次の2冊が参考になりますので、手に取ってみてください。
組織教学の基本中の基本は、まず自分自身で考えるということです。自分たちが信仰している「神は、どのような神なのか」といった問いに真剣に向き合うことが、その神の教えを信じて生きることの意味を考えることにつながります。
しかし、その考察が自分勝手な思い込みであっては、それはただの妄想にすぎないことになるでしょう。教祖は、最も信頼できる教えの基準として「おふでさき」を書き残しています。だから、まず「おふでさき」を通して自分自身の問いと向き合い、さらに原典や伝承に残る教祖の言葉や「ひながた」を通して、教祖を通して伝えられた親神の教えの意味を問い続けていく姿勢が大切です。
ここで「問い続けていく」と言ったのは、この営みに終わりはないからです。かつて、天理教教義学の第一人者であった中島秀夫氏は、いつも「教学研究は、謙虚でなくてはならない」と仰っていました。自分の考えだけが正しい答えだと思い込むのではなく、今日も昨日と同じように、そして明日も教祖の教えをもとにして、目の前の人生の問いに向き合い続けることが、組織教学の営みなのです。
今回は、時間の制限もあってかなり雑駁で導入的な議論を紹介することしかできませんでした。しかし、これを機会に原典や伝承的教理、教祖の「ひながた」等に真摯に向き合い、この教えを信じて生きていくことの意味について、自ら考える姿勢を身につけてもらいたいと思います。
本来は、人間観や救済観、歴史観や人生論といった多彩な組織教学の課題について紹介する予定でしたが、リモート講義のために今年の春学期の授業数は限られています。さらなる天理教学の研究領域と今後の可能性については、秋学期に詳しく紹介することにしましょう。
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