前回の授業では、「おふでさき」の研究の概要について話しました。現在、皆さんの手もとに変体仮名や注釈付きの「おふでさき」が存在すること自体が、すでに多くの人々の深い信仰と真摯な研究の成果なのです。
前回の講義では割愛しましたが、「おふでさき」の外国語への翻訳やテキスト全体の解釈などについても、さまざまな研究の蓄積があります。皆さんが「このお歌はどう読むのですか?」と質問したときに、「ああ、そこはこう読むんですよ」と学校の先生や教会の方々が教えてくれたとすれば、それはかつて誰かがその部分の読み方を研究した成果なのです。
小学校や中学校で学習した理科や社会の内容は、皆さんにとっては覚えるべき知識だったと思いますが、その知識の源はもともと誰かの研究です。大学の学びが目指すのは、自ら研究する力つまり考える力を身につけることであって、そこが高校までの学習と根本的に違うところです。これまでの研究の蓄積をしっかり学んだうえで、自分自身で答えを見つける姿勢を身につけましょう。
先ほどの事例に戻れば、「そこはこう読む」と教えられたことをただ覚えるのは「学習」です。「研究」には、さらに「本当にこう読めるのか」、「こう読めると主張する根拠は、いったい何なのか」、「原本や写本にはどう書いてあるのか」というように、探求を進めていく姿勢が必要とされます。
そのためには、「おふでさき」執筆時代の歴史や社会、文化や言語、宗教などの多彩な知識が必要ですし、文献学や文学理論、国語学や言語学、民俗学や歴史学などの理論に精通している必要があります。寮の点呼や朝夕のおつとめで「おふでさき」を拝読することができるのは、こうした研究の蓄積のおかげなのです。
「みかぐらうた」とは何か
前回の話題はこれくらいにして、今回は「みかぐらうた」の研究について話します。「みかぐらうた」について中山正善・二代真柱(天理大学の創設者)は、次のように述べています。
かぐらづとめの地唄として、教祖親しく筆を執って作詞編成されたもので、次の五節に分れる。但し真筆原本は、今日尚、発見されていない。おふでさきによれば、本来かぐらづとめの構成の一要素と解釈されるべきものではある。が、しかしおふでさきが公表されていなかった時から、みかぐらうたは公刊されていたので、地唄と云う意味ばかりでなく、おうた自体が、信仰の対照として親しまれている関係から、教典にも原典の一つに数えている。(中山正善『続ひとことはな志 その二』より)
これによると、「みかぐらうた」も「おふでさき」と同じく、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)自身が筆を執って書き記されたテキストだとされています。そうだとすると「おふでさき」と「みかぐらうた」は、同じような形式で伝えられた神の言葉であり、「みかぐらうた」は広い意味での「おふでさき」である、ということになるでしょう。
しかし、両者の状況はまったく同じではありません。「おふでさき」は、教祖直筆の原本が現在もそのまま保管されています。前回の授業でも話したように、明治16年の「ふし」の際も守り通されました。
その一方で、「みかぐらうた」は直筆の原本が残っていません。まだ、発見される可能性がないとは言えないでしょうが、かなり難しいのではないでしょうか。もちろん、もし直筆原本とされるものが発見されたとすれば、その真贋は客観的・合理的・実証的な方法で確認・検証されることになります。
もちろん、どちらも教祖を通して伝えられた神の言葉ですが、直筆の原本が残されている「おふでさき」のほうが―誤りのない神意を表したテキストとして―より信頼できると考えられています。
また、「みかぐらうた」は「つとめ」の地歌として教えられていることも「おふでさき」や「おさしづ」とは根本的に異なるところです。
「みかぐらうた」は、おつとめの順序に従って、便宜的に第1節から第5節に分けられます。第1節は「あしきをはろうて・・・」、第2節は「ちょとはなし・・・」、第3節は「いちれつすまして かんろだい」、第4節は「よろづよ八首」、第5節は「12下り(てをどり)」です。
これらは、それぞれ違う時期に異なる状況で教えられ、しばしば内容も変更されました。しかし、教祖が現身をかくされる明治20年までには、現在の順序で勤められるようになっています。「みかぐらうた」の順序は、読み物としての順序ではなく「つとめ」の順序に従っています。やはり「みかぐらうた」は、教祖がその完成を急き込まれた「つとめ」のあり方と、切り離すことのできないテキストであることは間違いないでしょう。
また、皆さんの手もとにある「みかぐらうた」には、かぐらづとめの地歌は1種類しか記載されていないでしょうが、「かぐらづとめ」は、他に11通りが伝えられています。
をびやづとめ(現勤)
ほうそつとめ
一子のつとめ
ちんばのつとめ
肥のつとめ
萌出のつとめ(現勤)
虫払のつとめ
雨乞ひつとめ
雨あづけのつとめ
みのりのつとめ
むほんのつとめ
これらの「かぐらづとめ」の地歌は、それぞれ微妙に異なりますので、「みかぐらうた」を原典/テキストと考える場合には、これらの地歌を含めて考える必要があります。
この「みかぐらうた」ないし「おかぐらうた」(「みかぐらうた」は現行の教典によって定められた呼称)は、「おふでさき」や「おさしづ」が歴史的経緯や編纂の問題によって刊行が遅れたなかで、唯一早い時期から天理教の聖典として刊行され、人々の手もとに届いていました。
「おふでさき」や「おさしづ」は、昭和になるまで刊行されなかったのに対して、「みかぐらうた」は、明治21年に「天理教会」の公認が許されたあと、すぐに刊行されています。その後は、戦時中に一時期改編されることはありましたが、教祖が現身をかくされた直後から、天理教の聖典として多くの人々に親しまれました。明治時代から「みかぐらうた」の解説書や注釈書はたくさん出版されています。
昭和になってはじめて公刊され、戦時中に回収されるなど、教祖が現身をかくされてから現在のようなかたちで出版されるまでに、60年以上かかった「おふでさき」や「おさしづ」とは違って、早くから「みかぐらうた」は現在のかたちで親しまれてきました。
「みかぐらうた」の成立
教祖が「みかぐらうた」を教えられたのは、慶応2年から明治15年くらいの期間になります。「おふでさき」の執筆は明治2年から明治15年頃ですので、「みかぐらうた」の全体的なかたちが整うまでの期間は、ほぼ「おふでさき」の執筆期間と重なっています。
慶応2年6月、小泉村不動院の山伏が中山家へやってきて、乱暴狼藉をはたらいたとされています。このときの出来事は、「おさしづ」(明治31年12月)にも思い出話のように語られていますので、かなり重要な意味を持っていたことは確かでしょう。
この時期に教祖は、それまで「南無天理王命・・・」とくり返し唱えていた「つとめ」に代えて、「あしきはらい たすけたまへ てんりわうのみこと」と21回唱える歌と手ぶりを教えられました。21回という回数の理由についても教えられていますが、手振りなどの詳細については、「つとめ」の研究について紹介する際に、詳しく説明したいと思います。
次の年である慶応3年に、教祖は12下りのお歌を教え始めます。お歌は秋頃までに教えられ、そのあと節付けと手振りに丸3年かかったとされています。慶応3年は大政奉還によって、政権が徳川幕府から朝廷に戻され、翌年の慶応4年にはその後の政変によって幕府側と反幕府側の全面対立によって鳥羽伏見の戦いが起こり、江戸が討幕軍によって占領されて年号が明治に変わります。慶応4年と明治元年は同じ年ですので、覚えておいてください。
明治2年の正月には「おふでさき」の執筆がはじまります。教祖が12下りの歌と手ぶりを教えられたのは、このような激動の時期でした。「おふでさき」の第1号の冒頭と内容が重なる「よろづよ八首」(第4節)と第2節(ちょとはなし)は、明治3年に教えられます。
さらに明治8年には、神道を中心にした国民道徳の普及を目指していた政府との軋轢から、天理王命という神名の使用を差し止められるなかで教祖は赤衣を召されて、第3節(かんろだい)を教えられました。また、この年には「ぢば定め」が行われ、先に紹介した11通りの「かぐらづとめ」も教えられています。
「ぢば」の地点と「かんろだい」の意義が、世界を救済する「つとめ」の意義とともに教えられ、ほどなく「かんろだい」の石造りがはじまります。第1節から第5節までの「みかぐらうた」の原型がようやくかたちになり、この後に女鳴物なども教えられます。
しかし、この「かんろだい」の建設は明治15年にとん挫し、あしきはらひ➡あしきをはろうて、いちれつすます➡いちれつすまして と歌を改めることになります。「みかぐらうた」が現在のようなかたちになるのは、教祖が現身をかくされる明治20年頃ではないかと推定されます。
明治10年代の「みかぐらうた」の写本や私刊本では、第2節が先になっているテキストが多いことは、これまでの研究で明らかになっています。明治21年に公刊された「御かぐら歌」は、第1節~第5節までの並びは現在と同じになっていますし、微妙な表記の違いはありますが内容はほぼ変わりません。
「みかぐらうた」研究の課題
前回の「おふでさき」研究と同じく、リモート授業では配布物等の制約がありますので、簡単に紹介しておきます。
直筆原本のない「みかぐらうた」の場合は、写本の研究が広く行われました。永尾広海氏の研究などによって、各種写本の系統なども明らかになっています。また、教祖が現身をかくされる以前から、刊行された私刊本もありました。これらについては、中山正善氏が詳しく整理しています。
また、つとめの地歌の研究では、地歌の旋律が研究され、前真柱・中山善衞氏を中心に録音された「みかぐらうた」の旋律が、現在ではスタンダードになっています。また、各種の鳴物練習譜なども多くの人々の研究成果だと言えるでしょう。
おてふりとの関連では、山澤為次氏の「おてふり概要」など、やはり多くの方々の研究と研鑽の蓄積があります。手振りと歌の関係に着目した「みかぐらうた」の研究も少なくありません。
さらには、教理書としての「みかぐらうた」の解釈や解説書は、最初のほうで説明したように、明治期から現在まで夥しい数の書籍が刊行されています。とくに明治・大正・昭和初期には「みかぐらうた」が、公刊されている唯一の原典でしたから、かなり多くの解説書があります。しかし、その内容は体系的研究というよりは、個々の信仰的な悟りが中心です。
古い「みかぐらうた」の解説書についても中山正善氏がある程度整理していますが、すべてを網羅したものではありません。私自身もこの分野には興味を持っていますが、今後の研究が期待されています。
今回はこれくらいにしておきますが、「みかぐらうた」の研究に共通する基本的な姿勢は、「つとめ」の意義をより深く理解し、「よろづたすけ」の「つとめ」を誤りなく勤習するための研究である、ということです。もちろん、他の天理教学の研究分野と同じく、その場合の研究姿勢は、客観的・合理的・実証的でなくてはならないことは、言うまでもないでしょう。
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