2021年5月22日土曜日

天理教学概論1 第2回


天理教学は何を学ぶのか

―天理教学の研究領域―


 前回の授業では、「信仰の学」としての天理教学の特徴を確認したうえで、前期の授業の概要を説明しました。最初の時間はイントロダクションでしたが、今回の授業からは具体的な内容を学んで行きます。基本的な出来事や人物の名前、概念や用語などをしっかり覚えるようにしてください。

信仰の主観性と学問の客観性

 今回の授業で説明するのは、天理教学の研究領域です。前回の授業において、天理教学は「信仰の学」であることを確認しました。天理教学は、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)「月日のやしろ」であり、教祖の残した言行は、われわれ人間の側からは到達できない「究極的な問い」への真実の答えであると、信じることを前提にしています。教祖を地上の月日であると信じることは、極めて主観的な判断(わたしが信じる)です。しかし、天理教学も学問である以上、「学」としての客観性や合理性は必ず保持していなくてはいけません。



 ここで言う「客観性」とは、主張する命題が知覚または感情、あるいは想像に起因する個人的主観から独立して「真」である、ということです。あらゆる命題は、その真理条件が直観的主観に起因するバイアスなしに満たされたときに、はじめて客観的真理を持つとみなされます。

「何を言っているのか分からない」という人もいるかも知れませんが、たとえば、「水は過熱して100度に達すると沸騰する」という命題と「カレーにはニンジンが入っているほうが美味しい」という命題を比べてみてください。

 ここで「命題」というのは、論理学の複雑な議論を前提するのではなく、シンプルに「真であるとか偽であるとか言いうる言語的に表明された判断」くらいの意味です。つまり、正しいか正しくないかを判断できる主張のことです。

 水を加熱して100度になると沸騰するという実験は、一般的な条件のもとで行なえば誰でも同じ結果を得て「真」であることを確認できます。実験する人が男性であっても女性であっても、老人であっても子供であっても、アメリカ人でも日本人でも、国籍や性別や年齢に関係なく基本的に結果は同じになります。

 つまり、「私」や「あなた」といった特定の人の個性や経験の蓄積に左右されることなく、誰にとっても正しいと判断することができる。これが客観的な判断の前提です。客観性は、I(わたし/一人称)や you(あなた/2人称)の判断ではなくて、he/she(彼/彼女・3人称)の判断でなくてはいけません。

 一方で、「カレーにはニンジンが入っているほうが美味しい」という命題の場合は、人によって判断の結果が違います。恥ずかしい話ですが、私は子供のころから人参が得意ではなくて、現在もあまり好きではありません。だから外食でカレーを注文した際に、人参を横にのけて食べ残すほどではありませんが、我が家のカレーにニンジンを入れたことはありません。いつも「カレーは、ニンジンが入っていないほうが美味しい」と思っています。

 たぶん、日本人の多くは私の意見に反対するでしょうが、少なくとも私にとって先の命題は正しくありません。しかし、私のこの判断は「主観的」であって、誰にでも共通して「真」であるとは言えないでしょう。私の好みのような個人的主観から独立して、「真」であると認められる命題でなくては、「客観的」であるとは言えないのです。

天理教学の客観性

 天理教学の「学」もまた「学」である以上は、こうした「客観性」を持たなくてはいけません。また、主張する命題はつねに道理や論理に適っていなくてはならないでしょう。

 1+1=2になるという判断のように、すべての人に共有されている理性の判断にもとづいて、命題が検証される必要があります。学問である以上、ただ多くの人が賛成しているというだけでは「正しい」主張であると判断することはできません。天理教学の場合も一般の学問的主張と同じように、判断の根拠となる証拠が明確に示されたうえで、矛盾のない議論が積み重ねられなくてはならないのです。

 天理教学という学問の枠組みの下でなされる主張は、つねに合理的でなくてはならないし、学問的成果として提唱された命題は、絶えず合理的な視座から正誤を検証されなくてはいけません。

 STAP細胞を発見したと主張しても科学的な検証に耐えられなければ、その発見は「真」であると認められないように、天理教学の研究成果も客観的で合理的な検証を経て、はじめてその妥当性が認められます。考古学の発掘現場にあらかじめ土器を埋めておいて、あとで新発見をしたと主張するような不正行為は、天理教学においても絶対にあってはならないものです。

 とはいえ、わたしたちの人生の問いに答えてくれる、親神様の教えに含まれる命題の多くは、学問的に検証できるような主張ではありません。「人の死は終わりではなく、新しい生のはじまりでもある」という主張が正しいのかどうか、客観的・合理的に検証することは不可能です。人の「生まれ変わり」の証拠を示すこともその正誤を論理的に検証することもできないでしょう。

 しかし、歴史的な史料の価値を検証したり、古い文献の読み方を確定したり、哲学的な議論を背景にして、教祖を通して伝えられた親神の教えの意味を論じたりすることは可能です。そして、これらの営みはすべて、一般的な学問と同じように、客観的・合理的な判断にもとづいて主張の是非や価値を検証し、評価することができます。

天理教学の研究領域

 このような学問的研究分野として、現在、以下のような天理教学の諸分野が想定されています。試験のことも考えて、しっかり確認してください。


 これらは独立した研究分野ではなく、相互に密接に関わっており、これらを総合的に見て行く方向性が求められています。

 とはいえ、このような研究分野が想定されているだけで、まだまだ研究の蓄積が少ないのが現状です。原典の研究教祖論といった、天理教という宗教伝統にとって中核になるような分野の研究でさえ、2,000年以上も議論の蓄積を重ねてきた仏教やキリスト教などの知的遺産に比べれば、まだスタートラインに立ったばかりだというのが現状です。

 しかし、少なくともその蓄積はゼロではありません。この授業では、各分野におけるこれまでの研究の蓄積を紹介するとともに、今後の可能性について、皆さんとともに考えていきたいと思っています。

 次回は、まず「原典学」の研究紹介からはじめます。

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