2021年5月25日火曜日

天理教学概論1 第7回


「こふき」と伝承的教理

―世界の真実と人類の救済―


*第1回からの授業をブログに順次公開しています。「ホーム」から閲覧できますので、試験等の準備に役立ててください。

伝承的教理の役割

 教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)を通して伝えられた、親神の教えの根幹を探求する営みは、啓示にもとづく「三原典」を基準にすべきであることは言うまでもありません。

 しかし、「原典」の記述はしばしば断片的で、基本的な教理についても多くは、まとまったかたちで説明されていません。このため、和歌や数え唄の形式で表現された、原典の多彩な象徴表現の意味を適確に理解し、そこに説かれた教えの内容を体系的に把握することは決して簡単ではありません。

「おふでさき」を日常的に拝読している人に、「おふでさきには何が書いてあるのですか?」と質問しても、なかなか明確な答えが得られないのはこのためです。たとえば、基本教理である「十全の守護」「八つのほこり」の説き分けなども原典自体には、まとまったかたちで述べられてはいません。それでは、このような教えの体系的な把握は、どうして可能になったのでしょうか。

 こうした教えの全体的な見取り図を考えるうえで、原典とともに重要なのが教祖を通して伝えられた「伝承的教理」なのです。教祖から直接に教えを受けた人々や、その教えを伝え聞いた先人たちの残した「伝承的教理」は、たんに過去を知るための史料であるばかりでなく、原典の言葉の解釈を補い、天理教の教えの理解をより体系的で確実にするガイドラインとなるものです。このため、「伝承」として言い伝えられたり書き残されたりした、教祖のお言葉や説かれた教えは、「原典」とはまた違ったかたちで、天理教の教えを学ぶうえで極めて重要な意味を持っているのです。

伝承的教理と「こふき本」

 この「伝承的教理」を代表するのが、いわゆる「こふき本」と呼ばれているものです。明治十三年から十四年頃、教祖は身近な人々にまとまった教理を何度もくり返して説き聞かせました。これが今日、「こふき話」と称されるものです。この教理のお話しは、教祖に代わって親神の教えを取り次ぐ「取次」ないし「取次人」を養成し、仕込むためのもので、教祖は何度もくり返して同じお話を覚えるまで仕込まれたようです。

 また、ちょうど同じ頃に教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」と仰せられました。このため、取次と呼ばれた側近の人々は、それぞれに教祖から聞いたお話を書きまとめて提出しています。このことは、当時書きとめられた写本に、次のような記述があることからも明らかです。


「にち/\にをはなしありたその事を くハしくふでにしゆるするなり」

(和歌体十四年山澤本)


こうして書きとめられた写本が、「こうき話写本」とか「こふき本」と呼ばれるものです。

 明治十四年に書き記された「十四年本」にはじまり、教祖が現身をかくされる明治二十年まで、多くの写本が伝存しています。明治十四年の写本には、「おふでさき」と同じように和歌体で書き記された「和歌体本」もありますが、多くは散文体で教祖が口述で説かれた教えを書きまとめています。

 また、一般的な和綴本の体裁をとった写本ばかりでなく、かなり大きな巻物の写本もあるなど、その体裁はかなり多岐にわたっています。とはいえ、記載された教理の内容自体は、教祖がくり返し話して聞かせたものですので、基本的にはどの写本も内容はほぼ同じになっています。

 ただし言い伝えによると、教祖はどの「こふき本」についても「これでよい」とは仰せられなかったそうです。このため、教祖の直筆とされる「おふでさき」や「みかぐらうた」、さらには神の言葉をそのまま書き取った「おさしづ」などに比べて、啓示の直接性は低いと考えられています。しかし、その内容は教祖がくり返して仕込まれた基本的な教理であり、教祖を通して伝えられた親神様の教えを知るうえで、極めて貴重な文献であることは間違いありません。

 その内容は、「元はじまりの話」(教祖を通して伝えられた、この世界と生命の創造の説話)を中心に基本的な教理をまとめたものです。明治十四年の写本にはありませんが、明治十六年以後の写本の多くには、「前の部」として教祖の略歴が附記され、とくに立教の経緯について詳しい説明があります。

 元はじまりの話が主要な部分を占めるため、古くは「泥海古記」などと呼ばれていました。しかし、原典とともに「こふき本」についても詳しく研究した二代真柱・中山正善氏は、自著の『こふきの研究』のなかで、「こふき」を「古記」と表記するのではなく、「口記」と漢字表記するべきではないか、と提言しています。実際に「こふき本」を手にすると、人間と世界の創造の説話だけが説かれているのではなく、元はじまりの話を中心に、さまざまな基本的教理が順序立ててまとめられていることに気づきます。



「こふき本」のなかで語られる「元はじまりの話」は、この世界と生命の成り立ちを伝えるばかりでなく、この世界のはじまりの時になされた約束にしたがって、教祖が「月日のやしろ」(親神の意志を直接に世界に伝える立場)になったことが強調されています。また、「元はじまりの話」は教祖によって伝えられた「かぐらづとめ」の形式と、その意味を説明する話でもあることが詳しく説かれています。

 さらには、「十全の守護」(この世界に遍在する親神のはたらき)の詳しい説明にはじまって、一人ひとりの人間が「かしもの・かりもの」の真実に目覚めて「八つのほこり」を反省し、親神様の思召に沿った生き方ができるようになれば、「ぢば」に据えられた「かんろだい」を中心に教えられた通りの「つとめ」が完成し、神人和楽の「陽気ぐらし」の世界が実現すると説かれています。

※「かしもの・かりもの」➡人間の身体は親神からの「かしもの」であり、人間の側からすれば「かりもの」であるという基本教理。

※「八つのほこり」➡「かりもの」の身体を親神の思召に即して使う/正しく生きるために、毎日の心のつかい方を反省する基準。

※「ぢば」➡元はじまりの時に、人間/生命が宿しこまれた場所。この世界に存在するあらゆる生命の始原の場所。

※「陽気ぐらし」➡教祖の教えにもとづく生き方が広がることによって、実現していく理想世界。

 古い写本を朗読すると、当時の教祖の面影を感じて目頭が熱くなることも少なくありません。シンプルな表現のなかに、極めて深い意味を含んだ言葉や表現が多く、簡単にすべてを理解することはできませんが、教祖を通して伝えられた親神様の教えを深く全体的に知るうえで、極めて重要な文献であることは間違いないでしょう。

これらの「こふき本」に記された教えは、教祖が現身をかくされた後に制度化した「別席」の内容に引き継がれるとともに、教祖が取次人に何度もくり返して話し聞かせた伝承の形式は、九回同じ内容の話を聞いて「さづけ」の理を戴く、別席制度の在り方に継承されることになります。

別席と「さづけ」

 別席は、「さづけ」(さづけの理)をいただく席を本席と呼ぶのに対して、「さづけ」をいただく前に、取次人から親神の教えを聞くために設けられた席のことです。

 明治七年(一八七四)、教祖は赤衣を召されて「月日のやしろ」としての立場を鮮明にされるとともに、数名の方々に「さづけ」を渡されました。

 明治二十年(一八八七)に教祖が現身をかくされてからは、飯降伊蔵「本席」と定めて「さづけ」を渡すことになり、その後は「さづけ」をいただく人の数が増えていきます。このため、明治二十二年・二十三年頃には「ぢば」へ帰ってきた人々が取次人から九回の別席話を重ねて聞き、心に深く教えを治めた者に「さづけ」を渡す制度が確立するようになります。




 その後、明治三十一年に「おさしづ」によって別席台本の制定が求められ、お話の内容を統一することになりました。この経緯については、『稿本中山眞之亮伝』に次のように述べられています。


「各人まちへでは、どうもならん。一手一つに、しっかり元の理を諭せ。とのお言葉を頂いて、取次全員、教祖からお教え頂いた処を書いて、眞之亮に提出し、眞之亮の手許に於て、一冊の台本に取りまとめ、親神様の思召を伺うて決定した」(二五六頁)


 この時に制定された台本は、真柱の手許に原本を保存し、別席の取次人はこれを借り受けて別席話を暗記し、基本的に同じ内容のお話を取り次ぐことになります。昭和三十一年になって、台本の言葉遣いと文字の一部が改定されましたが、現在も当時の台本の内容が引き継がれています。

 このため、別席では同じ台本をもとにした基本的に同じ話を九回くり返して拝聴することになりました。また、「同んなじ事九遍聞かしたら、どんな者でも覚えて了う」(明治三十一年五月十二日)と言われるように、九回の別席のお話は「月日のやしろ」としての教祖を通して伝えられた親神の教えをくり返して聞き、心に治めるための神の言葉です。こうして、別席話の内容を深く心に治めた者に「さづけの理」が渡され、この「さづけ」の取り次ぎを通して、教えを広く世界へ伝えていく形がつくられます。

 別席話には、「さづけ」の取次ぎに媒介される布教伝道の場面において、人々に伝えるべき基本的な教理が集約されており、この基本教理をしっかり覚えて心に治めることが、天理教の布教活動や信仰生活の基盤になります。とくに、元はじまりの話、十全の守護、かしもの・かりもの、八つのほこり、教祖の立場、ひながた、といった基本教理が覚えやすい形で語られている別席の内容を心に治めることは、教えの内容を知らない人々に教理を伝え、日常生活のなかで教えを実践していくうえで極めて重要な意味を持っています。

 心に治めた教えが血肉になって、自然に生活に滲み出てくるようになるためには、いつでも教えをもとに自分自身を省みることができるように、基本教理をしっかり覚え込むことが大切でしょう。「さづけ」を戴いて「よふぼく」となり、広く世界に教えを伝える立場を与えられた人々には、まず別席を通して基本的な教理を深く心に治めることが求められるのです。

 断片的で象徴的に書き残された「原典」の言葉を体系的に理解することを可能にし、教えの全体的な見取図を与えてくれるのは、「こふき」~別席へと連なる、口頭で伝えられたこの伝承的教理の存在です。別席を運んだ人は覚えているはずですが、そこでは十全の守護や八つのほこりの説き分けが詳しく、しかも体系的に説かれています。こうした基本的な教理の枠組みがあって、はじめて原典の研究を教えの体系的な理解に活かしていくことができるのです。

逸話と伝承と教理

 さらには、教祖の逸話や伝承として残されたエピソードのなかにも、教理の理解を深めてくれるお言葉が多く残されています。「稿本天理教教祖伝」が編纂された際に、いつか逸話篇と呼べるものを刊行したいという意思は述べられていましたが、昭和51年/教祖90年祭の記念出版として、「稿本天理教教祖伝逸話篇」が刊行されました。教祖の幼少期から現身を隠されるまでの生涯のなかで、のちの人々に語り継がれたエピソードが200編集められています。

 もちろん、これらの逸話は多方面において重要ですが、教祖伝の研究について紹介する時間が別にありますので、そちらで詳しく紹介しましょう。



 また、教祖と長く苦楽を共にした先人の方々の手記には、貴重な教祖のお言葉がたくさん残されています。なかには、基本的な教理の理解そのものに関わるような貴重な伝承も少なくありません。

 辻家文書、梅谷文書、増井りん文書、山田伊八郎文書、高井猶吉聞書などには、教祖の説かれた教えについて、かなり詳しい記述があります。また、これらの先人から教祖の教えやエピソード聞き集めて書き残した正文遺韻(諸井政一)などは、現在の教典や教祖伝などにも内容が反映されています。これらの先人の言行も含めて、貴重な文書類の多くが活字になっていますので、宗教学科の皆さんは、ぜひ在学中に学んでください。

 さらには、赤衣、刺繍や細工、教祖所縁の場所など、興味深い遺物や史跡がたくさん残されています。かつて私は、天理時報でこれらの史跡や遺物を歩いて訪ねる連載をしていました。対面授業がはじまれば、ぜひ皆さんとも近くの史跡を訪れてみたいと思っています。

 教祖を通して伝えられた教えの根幹を探求する営みにとって、教祖が口述で残された伝承的教理は極めて重要です。宗教学科で世界の宗教思想や天理教の教えを学ぶ人々は、残された資料に積極的に目を通し、より専門的な立場から教理の理解を深めてください。

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2021年5月22日土曜日

天理教学概論 第5回

 
「みかぐらうた」の研究

―信仰の書/「つとめ」の地歌―


 前回の授業では、「おふでさき」の研究の概要について話しました。現在、皆さんの手もとに変体仮名や注釈付きの「おふでさき」が存在すること自体が、すでに多くの人々の深い信仰と真摯な研究の成果なのです。

 前回の講義では割愛しましたが、「おふでさき」の外国語への翻訳やテキスト全体の解釈などについても、さまざまな研究の蓄積があります。皆さんが「このお歌はどう読むのですか?」と質問したときに、「ああ、そこはこう読むんですよ」と学校の先生や教会の方々が教えてくれたとすれば、それはかつて誰かがその部分の読み方を研究した成果なのです。

 小学校や中学校で学習した理科や社会の内容は、皆さんにとっては覚えるべき知識だったと思いますが、その知識の源はもともと誰かの研究です。大学の学びが目指すのは、自ら研究する力つまり考える力を身につけることであって、そこが高校までの学習と根本的に違うところです。これまでの研究の蓄積をしっかり学んだうえで、自分自身で答えを見つける姿勢を身につけましょう。

 先ほどの事例に戻れば、「そこはこう読む」と教えられたことをただ覚えるのは「学習」です。「研究」には、さらに「本当にこう読めるのか」、「こう読めると主張する根拠は、いったい何なのか」、「原本や写本にはどう書いてあるのか」というように、探求を進めていく姿勢が必要とされます。

 そのためには、「おふでさき」執筆時代の歴史や社会文化や言語宗教などの多彩な知識が必要ですし、文献学や文学理論国語学や言語学民俗学や歴史学などの理論に精通している必要があります。寮の点呼や朝夕のおつとめで「おふでさき」を拝読することができるのは、こうした研究の蓄積のおかげなのです。

「みかぐらうた」とは何か

 前回の話題はこれくらいにして、今回は「みかぐらうた」の研究について話します。「みかぐらうた」について中山正善・二代真柱(天理大学の創設者)は、次のように述べています。

 かぐらづとめの地唄として、教祖親しく筆を執って作詞編成されたもので、次の五節に分れる。但し真筆原本は、今日尚、発見されていない。おふでさきによれば、本来かぐらづとめの構成の一要素と解釈されるべきものではある。が、しかしおふでさきが公表されていなかった時から、みかぐらうたは公刊されていたので、地唄と云う意味ばかりでなく、おうた自体が、信仰の対照として親しまれている関係から、教典にも原典の一つに数えている。(中山正善『続ひとことはな志 その二』より)

 これによると、「みかぐらうた」も「おふでさき」と同じく、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)自身が筆を執って書き記されたテキストだとされています。そうだとすると「おふでさき」と「みかぐらうた」は、同じような形式で伝えられた神の言葉であり、「みかぐらうた」は広い意味での「おふでさき」である、ということになるでしょう。

 しかし、両者の状況はまったく同じではありません。「おふでさき」は、教祖直筆の原本が現在もそのまま保管されています。前回の授業でも話したように、明治16年の「ふし」の際も守り通されました。

 その一方で、「みかぐらうた」は直筆の原本が残っていません。まだ、発見される可能性がないとは言えないでしょうが、かなり難しいのではないでしょうか。もちろん、もし直筆原本とされるものが発見されたとすれば、その真贋は客観的・合理的・実証的な方法で確認・検証されることになります。

 もちろん、どちらも教祖を通して伝えられた神の言葉ですが、直筆の原本が残されている「おふでさき」のほうが―誤りのない神意を表したテキストとして―より信頼できると考えられています。

 また、「みかぐらうた」は「つとめ」の地歌として教えられていることも「おふでさき」や「おさしづ」とは根本的に異なるところです。

「みかぐらうた」は、おつとめの順序に従って、便宜的に第1節から第5節に分けられます。第1節は「あしきをはろうて・・・」、第2節は「ちょとはなし・・・」、第3節は「いちれつすまして かんろだい」、第4節は「よろづよ八首」、第5節は「12下り(てをどり)」です。

 これらは、それぞれ違う時期に異なる状況で教えられ、しばしば内容も変更されました。しかし、教祖が現身をかくされる明治20年までには、現在の順序で勤められるようになっています。「みかぐらうた」の順序は、読み物としての順序ではなく「つとめ」の順序に従っています。やはり「みかぐらうた」は、教祖がその完成を急き込まれた「つとめ」のあり方と、切り離すことのできないテキストであることは間違いないでしょう。

 また、皆さんの手もとにある「みかぐらうた」には、かぐらづとめの地歌は1種類しか記載されていないでしょうが、「かぐらづとめ」は、他に11通りが伝えられています。

をびやづとめ(現勤)

ほうそつとめ

一子のつとめ

ちんばのつとめ

肥のつとめ

萌出のつとめ(現勤)

虫払のつとめ

雨乞ひつとめ

雨あづけのつとめ

みのりのつとめ

むほんのつとめ

 これらの「かぐらづとめ」の地歌は、それぞれ微妙に異なりますので、「みかぐらうた」を原典/テキストと考える場合には、これらの地歌を含めて考える必要があります。

 この「みかぐらうた」ないし「おかぐらうた」(「みかぐらうた」は現行の教典によって定められた呼称)は、「おふでさき」や「おさしづ」が歴史的経緯や編纂の問題によって刊行が遅れたなかで、唯一早い時期から天理教の聖典として刊行され、人々の手もとに届いていました。

「おふでさき」や「おさしづ」は、昭和になるまで刊行されなかったのに対して、「みかぐらうた」は、明治21年に「天理教会」の公認が許されたあと、すぐに刊行されています。その後は、戦時中に一時期改編されることはありましたが、教祖が現身をかくされた直後から、天理教の聖典として多くの人々に親しまれました。明治時代から「みかぐらうた」の解説書や注釈書はたくさん出版されています。

 昭和になってはじめて公刊され、戦時中に回収されるなど、教祖が現身をかくされてから現在のようなかたちで出版されるまでに、60年以上かかった「おふでさき」や「おさしづ」とは違って、早くから「みかぐらうた」は現在のかたちで親しまれてきました。

「みかぐらうた」の成立

 教祖が「みかぐらうた」を教えられたのは、慶応2年から明治15年くらいの期間になります。「おふでさき」の執筆は明治2年から明治15年頃ですので、「みかぐらうた」の全体的なかたちが整うまでの期間は、ほぼ「おふでさき」の執筆期間と重なっています。

 慶応2年6月、小泉村不動院の山伏が中山家へやってきて、乱暴狼藉をはたらいたとされています。このときの出来事は、「おさしづ」(明治31年12月)にも思い出話のように語られていますので、かなり重要な意味を持っていたことは確かでしょう。

 この時期に教祖は、それまで「南無天理王命・・・」とくり返し唱えていた「つとめ」に代えて、「あしきはらい たすけたまへ てんりわうのみこと」と21回唱える歌と手ぶりを教えられました。21回という回数の理由についても教えられていますが、手振りなどの詳細については、「つとめ」の研究について紹介する際に、詳しく説明したいと思います。

 次の年である慶応3年に、教祖は12下りのお歌を教え始めます。お歌は秋頃までに教えられ、そのあと節付け手振りに丸3年かかったとされています。慶応3年は大政奉還によって、政権が徳川幕府から朝廷に戻され、翌年の慶応4年にはその後の政変によって幕府側と反幕府側の全面対立によって鳥羽伏見の戦いが起こり、江戸が討幕軍によって占領されて年号が明治に変わります。慶応4年と明治元年は同じ年ですので、覚えておいてください。

 明治2年の正月には「おふでさき」の執筆がはじまります。教祖が12下りの歌と手ぶりを教えられたのは、このような激動の時期でした。「おふでさき」の第1号の冒頭と内容が重なる「よろづよ八首」(第4節)と第2節(ちょとはなし)は、明治3年に教えられます。

 さらに明治8年には、神道を中心にした国民道徳の普及を目指していた政府との軋轢から、天理王命という神名の使用を差し止められるなかで教祖は赤衣を召されて、第3節(かんろだい)を教えられました。また、この年には「ぢば定め」が行われ、先に紹介した11通りの「かぐらづとめ」も教えられています。

 「ぢば」の地点と「かんろだい」の意義が、世界を救済する「つとめ」の意義とともに教えられ、ほどなく「かんろだい」の石造りがはじまります。第1節から第5節までの「みかぐらうた」の原型がようやくかたちになり、この後に女鳴物なども教えられます。

 しかし、この「かんろだい」の建設は明治15年にとん挫し、あしきはらひ➡あしきをはろうていちれつすます➡いちれつすまして と歌を改めることになります。「みかぐらうた」が現在のようなかたちになるのは、教祖が現身をかくされる明治20年頃ではないかと推定されます。

 明治10年代の「みかぐらうた」の写本や私刊本では、第2節が先になっているテキストが多いことは、これまでの研究で明らかになっています。明治21年に公刊された「御かぐら歌」は、第1節~第5節までの並びは現在と同じになっていますし、微妙な表記の違いはありますが内容はほぼ変わりません。

「みかぐらうた」研究の課題

 前回の「おふでさき」研究と同じく、リモート授業では配布物等の制約がありますので、簡単に紹介しておきます。

 直筆原本のない「みかぐらうた」の場合は、写本の研究が広く行われました。永尾広海氏の研究などによって、各種写本の系統なども明らかになっています。また、教祖が現身をかくされる以前から、刊行された私刊本もありました。これらについては、中山正善氏が詳しく整理しています。

 また、つとめの地歌の研究では、地歌の旋律が研究され、前真柱・中山善衞氏を中心に録音された「みかぐらうた」の旋律が、現在ではスタンダードになっています。また、各種の鳴物練習譜なども多くの人々の研究成果だと言えるでしょう。

 おてふりとの関連では、山澤為次氏の「おてふり概要」など、やはり多くの方々の研究と研鑽の蓄積があります。手振りと歌の関係に着目した「みかぐらうた」の研究も少なくありません。

 さらには、教理書としての「みかぐらうた」の解釈や解説書は、最初のほうで説明したように、明治期から現在まで夥しい数の書籍が刊行されています。とくに明治・大正・昭和初期には「みかぐらうた」が、公刊されている唯一の原典でしたから、かなり多くの解説書があります。しかし、その内容は体系的研究というよりは、個々の信仰的な悟りが中心です。

 古い「みかぐらうた」の解説書についても中山正善氏がある程度整理していますが、すべてを網羅したものではありません。私自身もこの分野には興味を持っていますが、今後の研究が期待されています。

 今回はこれくらいにしておきますが、「みかぐらうた」の研究に共通する基本的な姿勢は、「つとめ」の意義をより深く理解し、「よろづたすけ」の「つとめ」を誤りなく勤習するための研究である、ということです。もちろん、他の天理教学の研究分野と同じく、その場合の研究姿勢は、客観的・合理的・実証的でなくてはならないことは、言うまでもないでしょう。

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天理教学概論1 第2回


天理教学は何を学ぶのか

―天理教学の研究領域―


 前回の授業では、「信仰の学」としての天理教学の特徴を確認したうえで、前期の授業の概要を説明しました。最初の時間はイントロダクションでしたが、今回の授業からは具体的な内容を学んで行きます。基本的な出来事や人物の名前、概念や用語などをしっかり覚えるようにしてください。

信仰の主観性と学問の客観性

 今回の授業で説明するのは、天理教学の研究領域です。前回の授業において、天理教学は「信仰の学」であることを確認しました。天理教学は、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)「月日のやしろ」であり、教祖の残した言行は、われわれ人間の側からは到達できない「究極的な問い」への真実の答えであると、信じることを前提にしています。教祖を地上の月日であると信じることは、極めて主観的な判断(わたしが信じる)です。しかし、天理教学も学問である以上、「学」としての客観性や合理性は必ず保持していなくてはいけません。



 ここで言う「客観性」とは、主張する命題が知覚または感情、あるいは想像に起因する個人的主観から独立して「真」である、ということです。あらゆる命題は、その真理条件が直観的主観に起因するバイアスなしに満たされたときに、はじめて客観的真理を持つとみなされます。

「何を言っているのか分からない」という人もいるかも知れませんが、たとえば、「水は過熱して100度に達すると沸騰する」という命題と「カレーにはニンジンが入っているほうが美味しい」という命題を比べてみてください。

 ここで「命題」というのは、論理学の複雑な議論を前提するのではなく、シンプルに「真であるとか偽であるとか言いうる言語的に表明された判断」くらいの意味です。つまり、正しいか正しくないかを判断できる主張のことです。

 水を加熱して100度になると沸騰するという実験は、一般的な条件のもとで行なえば誰でも同じ結果を得て「真」であることを確認できます。実験する人が男性であっても女性であっても、老人であっても子供であっても、アメリカ人でも日本人でも、国籍や性別や年齢に関係なく基本的に結果は同じになります。

 つまり、「私」や「あなた」といった特定の人の個性や経験の蓄積に左右されることなく、誰にとっても正しいと判断することができる。これが客観的な判断の前提です。客観性は、I(わたし/一人称)や you(あなた/2人称)の判断ではなくて、he/she(彼/彼女・3人称)の判断でなくてはいけません。

 一方で、「カレーにはニンジンが入っているほうが美味しい」という命題の場合は、人によって判断の結果が違います。恥ずかしい話ですが、私は子供のころから人参が得意ではなくて、現在もあまり好きではありません。だから外食でカレーを注文した際に、人参を横にのけて食べ残すほどではありませんが、我が家のカレーにニンジンを入れたことはありません。いつも「カレーは、ニンジンが入っていないほうが美味しい」と思っています。

 たぶん、日本人の多くは私の意見に反対するでしょうが、少なくとも私にとって先の命題は正しくありません。しかし、私のこの判断は「主観的」であって、誰にでも共通して「真」であるとは言えないでしょう。私の好みのような個人的主観から独立して、「真」であると認められる命題でなくては、「客観的」であるとは言えないのです。

天理教学の客観性

 天理教学の「学」もまた「学」である以上は、こうした「客観性」を持たなくてはいけません。また、主張する命題はつねに道理や論理に適っていなくてはならないでしょう。

 1+1=2になるという判断のように、すべての人に共有されている理性の判断にもとづいて、命題が検証される必要があります。学問である以上、ただ多くの人が賛成しているというだけでは「正しい」主張であると判断することはできません。天理教学の場合も一般の学問的主張と同じように、判断の根拠となる証拠が明確に示されたうえで、矛盾のない議論が積み重ねられなくてはならないのです。

 天理教学という学問の枠組みの下でなされる主張は、つねに合理的でなくてはならないし、学問的成果として提唱された命題は、絶えず合理的な視座から正誤を検証されなくてはいけません。

 STAP細胞を発見したと主張しても科学的な検証に耐えられなければ、その発見は「真」であると認められないように、天理教学の研究成果も客観的で合理的な検証を経て、はじめてその妥当性が認められます。考古学の発掘現場にあらかじめ土器を埋めておいて、あとで新発見をしたと主張するような不正行為は、天理教学においても絶対にあってはならないものです。

 とはいえ、わたしたちの人生の問いに答えてくれる、親神様の教えに含まれる命題の多くは、学問的に検証できるような主張ではありません。「人の死は終わりではなく、新しい生のはじまりでもある」という主張が正しいのかどうか、客観的・合理的に検証することは不可能です。人の「生まれ変わり」の証拠を示すこともその正誤を論理的に検証することもできないでしょう。

 しかし、歴史的な史料の価値を検証したり、古い文献の読み方を確定したり、哲学的な議論を背景にして、教祖を通して伝えられた親神の教えの意味を論じたりすることは可能です。そして、これらの営みはすべて、一般的な学問と同じように、客観的・合理的な判断にもとづいて主張の是非や価値を検証し、評価することができます。

天理教学の研究領域

 このような学問的研究分野として、現在、以下のような天理教学の諸分野が想定されています。試験のことも考えて、しっかり確認してください。


 これらは独立した研究分野ではなく、相互に密接に関わっており、これらを総合的に見て行く方向性が求められています。

 とはいえ、このような研究分野が想定されているだけで、まだまだ研究の蓄積が少ないのが現状です。原典の研究教祖論といった、天理教という宗教伝統にとって中核になるような分野の研究でさえ、2,000年以上も議論の蓄積を重ねてきた仏教やキリスト教などの知的遺産に比べれば、まだスタートラインに立ったばかりだというのが現状です。

 しかし、少なくともその蓄積はゼロではありません。この授業では、各分野におけるこれまでの研究の蓄積を紹介するとともに、今後の可能性について、皆さんとともに考えていきたいと思っています。

 次回は、まず「原典学」の研究紹介からはじめます。

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天理教学概論1 第4回


「おふでさき」の研究

―神の言葉の探究―


 前回の授業では、原典の概略について説明しました。「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」は、なぜ原典と呼ばれるのか。また、天理教の聖典としての原典の意義などについて、他宗教の聖典とも比較しながら説明しました。

 今回は「おふでさき」その研究について学びます。グーグルフォームの質問には、ほぼ全員が正解していますので、この調子で受講してください。


「おふでさき」を拝読する

 「おふでさき」の研究を考える場合に、まず最初に挙げておかなくてはならないのは、「おふでさき」の刊行者である、天理教の二代真柱・中山正善氏の名前でしょう。

 これは個人的な見解ですが、中山正善氏の「おふでさき」研究は、やはり「おふでさき(附注釈)」「まえがき」に集約されているような気がします。



 昭和3年の「おふでさき」公刊の時に付された、この「まえがき」には、「おふでさき」とは何でありなぜこの書物を公刊して広く読ましむる必要があるのか、といった問いへの応答が極めて親しみやすく、それでいて心に響く文章によって、簡潔にまとめられています。

「おふでさき」に関心のある人は、まずこの「まえがき」を何度も読んで、言葉が頭に浮かぶくらいになってから「おふでさき」を学ぶとよい、と思います。

 この「まえがき」は、次のような印象深い文章ではじまります。

余程以前である。私がまだ母の膝に親しんでいた時分である。私は母から、教祖様が参ってきた人々に誰彼(だれかれ)の差別なくおふでさきを読めとおすすめになった、という話を聞いた。また、「これさえ読んでおけば、少しも学問はいらないのやで」と、日々母におさとしになったという話も耳にしている。

 ここで「母」というのは、御母堂さま、つまり教祖の孫で秀司先生の娘であり、初代真柱さまと結婚した「たまへ」さまのことです。教祖が現身をかくされたとき、明治10年生まれのたまへさまは10才くらいでしたので、ちょうど二代真柱と同じようにお言葉を聞いたのではないでしょうか。

「これさえ読んでおけば、少しも学問はいらない」という言葉は、極めて含蓄に富んでいます。いろいろな読み方はできるでしょうが、少なくとも何も学ばなくても良いというような、いわゆる反知性主義ではないことは、この母が息子である中山正善氏に施した英才教育を見ればよく分かります。

 また、二代真柱ばかりでなく多くの優秀な若者が、高等教育の機会を与えられました。さらには、御母堂さまは女子教育にも力を入れます。信仰者にとって「おふでさき」に記された神意は、人知を超えたこの世界の真実ですが、テキストに書き記された言葉は、言葉を読んで理解し、考え、そして行動する人がいなくては、ただ永遠に沈黙を重ねるだけです。

 言葉を生かしていくためには、言葉を読み深めなくてはならないのです。

 これまで、宗教学科の入試面接の際に、よく「おふでさき」を読んだことはありますか、と質問してきました。高校の寮生活や教会の朝夕のつとめなどで、毎日拝読している人は少なくないのでしょう、多くの人が「はい」と答えてくれました。さらに「最初から最後まで読みましたか?」と質問を続けても、かなりの人が「はい」と答えます。しかし、さらに続けて「それでは、何がかいてありましたか?」と質問すると、急に答えられる人が少なくなります。

 ある本を最初から最後まで読んで、何が書いてあったか答えられない、というのは可笑しな話です。普通はある程度は答えられるはずではないでしょうか。これには、和歌を連ねた「おふでさき」の形式も関係しているかも知れません。

 とはいえ、教祖が「おふでさき」を書き残されたのは、やはり後世の人々に読ませるためです。これも「まえがき」に引用されている「おふでさき」の言葉ですが、「おふでさき」自体には「おふでさき」について、次のように説明されています。

このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ   一号21
せめるとててざしするでハないほどに くちでもゆハんふでさきのせめ  一号22

 おふでさきは、人智を越えた親神の目に映る世界の「理/ことわり」を記した、神の言葉なのです。

 『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、次のように記されています。

「書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。」 と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、「筆、筆、筆を執れ。」 と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。(二二 おふでさき御執筆)

 これは、教祖ご本人の述懐です。「おふでさき」に記された言葉は、どのようなお言葉であるかがよく分かる逸話ではないでしょうか。また、内容について「おさしづ」に、次のようなお言葉があります。

これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、軽いようで重い、軽い心持ってはいけん。話の台であろう。(おさしづ・明治37年8月23日)

 このお言葉は、日露戦争の際に天理教の信者で戦死した軍人の子弟の学資補助をする組織を作るために伺った「おさしづ」にあるお言葉です。戦争という予測不能の状況に対して、どのような対処をすべきかと伺う人たちに、「おふでさき」が「話の台」である、諭されています。

 コロナ禍の現在も先の見えない非常事態ですが、このような時こそ「おふでさき」をしっかり拝読する必要があります。宗教学科へ入学した皆さんは、卒業するときに「おふでさき」に何が書いてあるのですか、と質問されてもすぐに答えられるように、しっかり学んでください。


「おふでさき」とは何か

「おふでさき」は、1,711首の和歌体の神の言葉が、17冊(17号)に分けて天理教教会本部に保管されている、教祖が自ら書き記した原本をもとに編纂されています。

「おふでさき」(附注釈)の巻頭には、その最初の頁に記された教祖のご真筆の写真が掲載されています。ちゃんと見たことはありますか。また、変体仮名で刊行された「おふでさき」は、写真に撮った教祖の真筆をもとに編集されています。教祖の直筆に近いかたちで刊行されていることを覚えておきましょう。

「おふでさき」の原本は、明治2年から15年の間に執筆されました。「おふでさき」第1号の扉には、「明治2年正月より」と記されています。明治2年に第1号と第2号が続けて執筆されたあと、しばらく間が空いて明治7年・8年くらいに集中的に執筆されます。先ほど紹介した執筆時の状況を考えると、そこにも何か神意が反映されているのかも知れません。

「おふでさき」の詳細な内容については、2年次生以降に詳しく学ぶ授業があります。

 教祖は、多くの人にこの「おふでさき」を書き写すように勧めました。また、直接お書きになった「おふでさき」を手渡すこともありました。教祖直筆の「おふでさき」で教会本部以外の場所に保管されていた真筆を「外冊」と呼び、ほんの僅かですが存在している1,711首に含まれていないお歌「号外」と呼びます。

 17冊に綴られた「おふでさき」を人々は書き写しました。幸いなことに私は、天理時報の連載のために各地を訪問し、教祖ご在世時代のさまざまな資料を拝見する機会を与えていただきました。そのなかで、幾人かの先人たちによる「おふでさき」の写本を拝見しました。

 それらは、とても丁寧に書写されていて深い信仰と「おふでさき」を尊重する姿勢が感じられます。しかし、明治16年中山家へ巡査がやってきたとき、鴻田忠三郎が「おふでさき」を書写していたことから、「おふでさき」の没収騒ぎになります。

 これは巡査の指示によって焼き捨てたと言い逃れることによって、何とか難を逃れました。『稿本天理教教祖伝』には、このとき警察に手続書として提出した文書が全文掲載されています。あまり注を読む人は少ないでしょうから、一部を引用しておきましょう。

其際巡廻之御方ヨリ右天輪王ニ属スル書類ハ焼可捨様御達ニ依り私仝居罷有候飯降伊蔵妻さとナル者右忠三郎披見ノ書類即時焼捨申候義ニ御座候手続書ヲ以此段有体奉上申候也

  明治十六年三月廿五日       山辺郡三嶋村  中山新治郎

 この手続書は警察に提出された正式文書ですから、嘘の証言であることが分かれば偽証罪になります。いつまでこの時の出来事が尾を引いたかは定かではありませんが、なかなか「おふでさき」の存在を表に出すことはできませんでした。

 しかし、天理教会の活動が公認され、一派独立して独立の宗教団体となる大正から昭和の初期にかけては、大正デモクラシーの時代出版技術の進化もあって、多くの「おふでさき」の私刊本が出版されます。

 そうしたなかで、ようやく昭和3年4月26日に「おふでさき」が刊行されることになるのです。同年の10月28日~11月1日には、第2回教義講習会(おふでさき講習会)が開催されて、「おふでさき」の意義がようやく広く周知されることになりました。



 しかし、ようやく刊行されて全教会に下付された「おふでさき」は、第2次世界大戦の最中に国の指導で回収され、再び各教会に下付されるのは終戦後の昭和23年になります。

 皆さんの手許にある「おふでさき」は、このような歴史を経て刊行されていることを忘れてはならないでしょう。いつでも「おふでさき」を読むことができるのは、決して当たり前のことではないのです。


「おふでさき」の研究史と今後の課題

 書誌学的研究では、用字・筆跡研究、外冊の研究写本の研究などがあります。これは、現在の「おふでさき」が刊行される前に詳しい調査と検証が行われました。また、「おふでさき」の言語構造に着目する研究では、発音、表現法、助動詞、方言などに注目した研究がなされてきました。さらには、和歌体という「おふでさき」のスタイルや文体、修辞法などに着目する研究も増えてきました。私自身は、この分野の「おふでさき」研究に取り組んでいます。

 また、中山正善氏の先駆的な研究である、「神」「月日」及び「をや」について に代表される、「おふでさき」を教義書として読解し、全17号に一貫する親神の神意を読み解く研究も、これまで多くの人々によって為されてきました。



 紙幅の都合これくらいにしておきますが、基本的にどの研究にも共通しているのは、神の言葉を誤りなく人々に伝え、その意義を広く世界の人々に理解してもらうことです。以前の授業で確認したように、その場合の研究姿勢は、客観的・合理的・実証的でなくてはならないことは、言うまでもないでしょう。

*翻訳の問題や読み方の確定、解釈の問題などをより詳しく・・・。

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天理教学概論1 第3回


原典とは何か

―教典・原典・伝承的教理―


 前回の授業では、天理教学の研究領域について説明しました。天理教学も学問である以上、その研究の姿勢は客観的で合理的でなくてはならないし、その主張は多くの場合に実証可能な根拠を必要とする、といったことを確認しました。そのうえで、原典学・歴史教学・組織教学・実践教学に分けて、全体的な研究領域をごく簡単に紹介しました。これから先の講義は、天理教学の各分野における従来の研究の蓄積を紹介し、今後の可能性について皆さんとともに考えていきます。

「原典」とは何か

 それでは、まず「原典」という言葉の意味から確認しましょう。極めてシンプルに「原典とは何か?」という問いに答えると、「天理教の“聖典”とされているテキスト」であると答えることができるでしょう。

「聖典」とは、一般に「聖人が書き残した書物、ないしは聖人の言行を記録した書物」を意味します。聖なる人/教祖と呼ばれるような人は、俗人には答えることのできない問いに対する答えをもたらしてくれる、ということについては以前の授業で確認しました。

 また、もう少し広い意味では「特定の宗教教団において、その教えが記されたものとして重要視されている文書」といった意味にも使われます。とはいえ、この定義にしたがうと多くの宗教伝統において、天理教における『稿本天理教教教祖伝』『逸話篇』『天理教教典』に類するテキストが「聖典」と見做されていることが分かります。天理教の「原典」を説明するためには、もう少し言葉の意味を限定する必要があります。➡聖典>原典

 天理教において「原典」とされているのは、具体的には「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」という三種のテキストです。だから、しばしば「三原典」といった言葉が使われます。つまり、具体的にはこの三つのテキストが「原典」とされています

 ➡「三原典」


 それでは、なぜこの三種のテキストを「原典」と見做すのでしょうか。

 それは「月日のやしろ」である教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)を通して伝えられた、“啓示”の内容を知るうえで最も基本的な文献であるからです。

 天保9年以来、教祖は「月日のやしろ」として親神の思召を伝えられました。「月日のやしろ」としての教祖の言葉は、中山みきという一人の女性の言葉ではなくて、親神の言葉そのものであると信じられています。

「おふでさき」を引用しておきます。

 いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や  十二号 67

 しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている 十二号 68

 神の言葉である教祖の言葉のなかには、人間には答えることのできない、あらゆる人生の問いに対する答えがあります。この答えが天理教教義の源泉であり、だからこそ「原典」は、天理教の教えを表明する根拠となるのです。

 また、「原典」という言葉の語源にもとづけば、「原典」は、昭和24年に刊行された『天理教教典』を編纂する際に、その「もと(原)」になった書物という意味です。現行の『天理教教典』は、天理教の教会本部の権威のもとで裁定された天理教の教義と見做されています。しかし、『天理教教典』自体は「原典」ではありません『教典』は「原典」をもとに編纂されたテキストです。だから、時代や社会の状況に応じて、言葉遣いなどはしばしば改訂されることがあります。

 この三種の「原典」には、それぞれテキストとしての特徴があります。それについては、次回以降の講義で詳しく説明することにしましょう。。

聖典と原典

 世界にはさまざまな宗教があり、多くの宗教伝統に「聖典」とされる書物があります。キリスト教には、聖書(新約聖書)がありますし、イスラームにはコーラン(クルアーン)があります。仏教には、経典(三蔵/大蔵経)と呼ばれる膨大なテキストの集積があります。キリスト教の新約聖書は、イエス・キリストの生涯を四人の弟子がそれぞれまとめた伝記が主な内容になっていますし、イスラームのコーランは、天上に記された神の言葉を預言者であるムハンマド(マホメット)が伝えた聖典です。仏教の経典は、基本的には真理を掴んで仏陀になったとされる釈迦の言行録をベースにしています。しかし、膨大な経典のなかには天理教やキリスト教であれば、後世の人々が教えを解釈した組織教学の成果に類するテキストも含まれています。



 これらの聖典に共通するのは、人間の側からは本来知ることのできない「真理」の覆いを取り、「真理」を露わにする言葉を伝えていることです。第1回の授業から使っている表現にしたがえば、「答えられない問い」への真実の答えが、それらの聖典のなかにはあります。

 ただし、その「答え」が真実であるかどうかは、それを信じるかどうかという問題なのであって、科学的な検証の対象にすることはできません。聖典の言葉を真実であると信じる人々が、それぞれの宗教伝統を形成していきます。キリスト教、イスラーム、仏教などについては、それぞれ2年次以降に詳しく学ぶことになります。

原典と神の言葉

 天理教の「原典」もまた、独自の教えにもとづいて「人生の問い」に答えてくれています。諸宗教の聖典と比較して、天理教の「原典」の特色は、神の言葉の直接性です。たとえば、「おふでさき」の十四号 25には、「月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから」とあります。この世界に私たち人間が存在しているのは、親神様が「陽気ぐらし」の世界の実現を望まれたからなのです。この世界に生命が存在していることの意味が、ストレートに伝えられています。

 また、一号 43には「このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし」とあります。だから、たとえどんなに困難な人生の問題に直面しても、わたしたちは原典に「答え」を見いだしていくことができるのです。

 しかし、答えが言葉として与えられていることは、すべての問題が解決するということではありません。少し余談になりますが、いまから10年ほど前に、アメリカの大学院に留学していた時代の恩師に呼んでいただいて、シカゴ大学で一期だけ非常勤講師を勤めたことがあります。

 このとき、ひどい時差ボケなり、なかなか夜に眠ることができずに苦しみました。その時に恩師の先生が「銀河ヒッチハイクガイド」というタイトルのSF小説を貸してくれました。かなりナンセンスな空想物語なのですが、そのなかに「宇宙と生命とすべてのことに関する究極の答え」を計算するハイパー・コンピュータが登場します。地球から遥か彼方にある惑星に住む高度な知性持った住民たちは、このハイパー・コンピュータに「生命と宇宙とすべてのことに関する究極の答え」を計算するように依頼しました。

 コンピュータは、計算することはできるけれども、長い時間がかかると言います。この惑星の住民たちは、750万年ものあいだ解答を待ち続けます。そして、待ちに待った解答の日、コンピュータが告げた答えは「42」という数字でした。コンピュータは計算機ですから、考えてみれば当然の結果です。怒った住民たちがコンピュータを壊そうとすると、慌てたコンピュータは「生命と宇宙とすべてのことに関する究極の答え」を見いだすためのプロジェクトを提案し、その研究対象を「地球」と名付ける、というストーリーです。



 はっきり言ってナンセンスな空想物語ですが、「答えの意味は、自分たちで見いださなくてはならない」というメッセージは考えさせられます。教祖を通して伝えられた「原典」の言葉のなかには、「生命と宇宙とすべてのことに関する究極の答え」が記されています。しかし、その答えの意味は、それぞれの人生の中で、私たち自身が見いだしていかなくてはならないのです。

 この世界に、私たち人間が存在している理由は「陽気ぐらし」であると教えられています。しかし、「陽気ぐらしとは何か」という問いに対しては、この教えを信じる人々がそれぞれに、自分自身の人生を通して答えを求め続けていかなくてはならないのです。

原典を学ぶことの意義

 神の言葉である原典に向き合うことによって、まず私たちは教祖を通して伝えられた親神の教えを学ぶことができます。原典に残された神の言葉がなければ、親神の教えを知るすべはありません。また、教祖を通して伝えられた親神の教えの全体像を明らかにするためには、原典をしっかりと読み深め、教えを探求し、その意味を理解して説明していく必要があります。さらには、原典に残された言葉を人生の糧として、今日を生きることも可能でしょう。こうした営みのすべてが、原典を読むことからはじまります。

 ここで、私の好きな「おさしづ」の一節を紹介しておきます。

人間の言葉と思てはならん。写し込んだる杖柱と思えば、何も案じる事は要らん。【明治32年2月2日】

 また、次のようなお言葉もあります。

何処の国にも彼処の国にもあったものやない。神が入り込んで教祖教えたもの。その教祖の言葉は天の言葉や。【明治三十四年五月二十五日】

 教祖を通して伝えられた「原典」の言葉を「人間の言葉」ではなく「天の言葉」として拝読するとき、必ず私たちの人生は豊かになり、世界は陽気ぐらしの世界に近づいていきます。

 なぜなら、原典を「天の言葉」であると信じる人々にとって、そこには人生あらゆる問いに対する答えがあり、人類の希望と可能性がそこに語られているからです。私たちに必要とされているのは、原典を通してこの真理を探究し、人類の希望と可能性を世界に伝えていくことです。

 次回は、まず「おふでさき」から、これまでの研究の蓄積を紹介し、今後の可能性について考えていきましょう。

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2021年5月20日木曜日

天理教学概論1 第6回


「おさしづ」の研究

―神の指図から何を学ぶか―


 前回の授業では、「みかぐらうた」の研究について紹介しました。「つとめ」の地歌である「みかぐらうた」の研究には、「つとめ」の意義をより深く理解し「よろづたすけ」の「つとめ」を誤りなく勤習できるようにする、という基本姿勢がありました。

 やはり「みかぐらうた」の研究は、「みかぐらうた」を地歌とする「つとめ」と切り離して考えることはできないでしょう。もちろん、教祖を通して伝えられた神意を知るうえで、どの「原典」も欠かせないテキストであることは共通しています。しかし、それぞれの原典の特質にしたがって、それぞれの原典を学ぶ姿勢や目的は微妙に異なっていることも理解してもらえたのではないでしょうか。今回は、「おさしづ」の研究について紹介します。

「おさしづ」とは何か

 広い意味では、教祖(おやさま/天理教の教祖・中山みき)を通して口述された親神の教示を意味します。具体的には、教祖ご本人及び「教祖存命の理」を受けて、教祖の「現身おかくし」(逝去)のあとに神意を取り次いだ、本席/飯降伊蔵(教祖の高弟の一人/「さづけ」の理を渡す立場与えられて「本席」と敬称される)を通して啓示された口述の教え/神の指図のことです。これを広義の「おさしづ」としておきましょう。

 現在書き残されていないものを含めて、教祖が直接に伝えたお言葉はかなり沢山あったはずですが、明治20年に教祖が「現身をかくす」以前のお言葉については、しっかり書き残された文献があまりありません。「あまりありません」と敢えて言っているのは、まったく無い訳ではないからです。これらの伝承資料については、次の講義で詳しく説明します。

 また、狭い意味では明治20年から40年までの神の指図を筆録した「書き下げ」を編纂し、現在では7巻本にまとめられた書物のことを言います。これを狭義の「おさしづ」としておきます。このテキストは「おふでさき」「みかぐらうた」とともに、天理教教義の源泉をなす三原典のうちの一つとされています。


*広義の「おさしづ」と区別し易くするために、「おさしづ本」と表記しても良いかも知れません。テキストとしての「おさしづ」と神の教示としての「おさしづ」の区別は、以前に説明した広義の「お筆先」と「おふでさき」の区別にも通じます。

 とはいえ、ここで一番重要なことは、「おさしづ」は教祖を通して語られた神の教示である、ということです。公刊されている原典としての「おさしづ」(全7巻)に収録されているお言葉は、ほとんど教祖から「言上の許し」をいただいた飯降伊蔵を通して語られた言葉であり、教祖ご本人の口述ではありません。しかし、そこに記録されている言葉は教祖の言葉であり、月日のやしろである教祖を通して伝えられた親神の思召なのです。

 これについては、最晩年の本席・飯降伊蔵を通して伝えられた「おさしづ」に、次のような印象的な言葉があります。


影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。案じる事要らんで。

【明治四十年五月十七日(陰暦四月六日)午前三時半】


「おさしづ」に語られている言葉は、形式的には飯降伊蔵という人を通して語られた言葉ですが、実際はすべて教祖を通して伝えられた神の言葉である、というのが天理教の信仰者の立場です。

「おさしづ」の言葉には、その時々の状況を説明した「割書(わりがき)」という見出しの文章が付けられています。上記の言葉を含む「おさしづ」の割書には「十二時過ぎより本席身上激しく障りの処三時に到り俄かに激しく相成り、教長初め一同揃うて居ります、何か御聴かし下さる事ありますか、と願」とあります。

 明治40年6月9日に飯降伊蔵は出直(逝去)していますので、このときはかなり差し迫った状況であったと言えるでしょう。飯降伊蔵を通した「おさしづ」は、明治40年6月9日の出直(逝去)の当日まで続きます。

 また、中山正善・二代真柱(天理大学の創設者)は、第10回・国際宗教学宗教史会議において発表した「天理教教義における言語的展開の諸形態」のなかで、「おふでさき」は天理教信仰における原理的規範を示し、「みかぐらうた」基本的な信仰の心得がてをどりの地歌として生命化されたものであり、「おさしづ」は、現実の歩みを正す具体的な指導の言葉であると、三原典の性格の違いについて述べています。

 現実的な問題についてより具体的な教示がなされ、人々を導くかたちをとっていることが「おさしづ」の特徴だといえるでしょう。

「おさしづ(本)」の編纂と刊行

 おさしづは口述されたお言葉を書き取ったテキストですが、「おふでさき」とはまた違ったかたちで「原本」が残されています。

「おさしづ」は主に3人の書き取り人たちがその場でお言葉を速記し、そのあと三者の下書きをつき合わせて清書をつくり、それを「書き下げ」として願人に渡されました。このため、多くの「原本」は各地に散らばっていました。

 これらの「書き下げ」を集めて活字化し、編纂したのが現在の「おさしづ本」です。ですから、「書き下げ」の筆跡鑑定原本の書誌的な研究は、むしろ執筆者が限定されている「おふでさき」以上に重要でしたし、現在の「おさしづ本」の編纂過程における苦労は、並々ならぬものであったはずです。


 きちんと浄書された「書き下げ」が残されているのは、教祖が現身をかくされる直前の明治20年1月4日(旧12月11日)~明治40年6月9日までの20年間です。同じように刊行に時間はかかりましたが、原本は完全なかたちで残されていた「おふでさき」とは違って、各地に散らばった「書き下げ」を収集して「原本」を確定することの困難さが、「おさしづ」の刊行を遅れさせる要因の一つとなりました。

 教祖40年祭(大正15年/昭和1年/1926)のあと、年祭活動の中心人物の一人であった松村吉太郎/高安大教会初代会長は、次のように述べています。


「今日、本教は予期以上の成績をおさめ、いかなる方面からいっても恥しい点は一つもないのでありますが、然し只一つ、現在の本教の欠陥としましては、この教義の編纂がまだ完成されておらないことであります。近来、ようやく教義の興隆ということが本教内において注目されて来たようでありますが、これを他宗教と比べるときは、遥かに遜色を認めるのは私一人ではありません」(松村吉太郎「道の八十年」)

*天理教では、教祖が現身をかくされて以来、1年、5年、10年と年祭を催し、その後も10年ごとに、ご存命の教祖とともに「陽気ぐらし」の実現に向かう歩みを確認し、決意を新たにする「年祭」を行なっています。


 こうしたなかで、50年祭直前の大正14年4月に「教義及び史料集成部」が創設され、原典の公刊や教祖伝の編纂、後には天理教教典の編纂事業に取り組みます。この時期には、「おふでさき」と同じように―大正10年に高安大教会が刊行した「おさしづ集」を含めて―すでにさまざまな「おさしづ」の私刊本が刊行されていました。
 しかし、これらは当然のことながら、残された「おさしづ」全てを網羅するものではなかったので、まず本部に保存されていた書き下げと松村吉太郎蒐集のものからはじめて、各教会保存の書き下げを集めて比較検討し、昭和2年~6年の間に最初の「おさしづ本(33巻本)」を順次公刊します。順次公刊したのは、それだけ各地に散らばっていた書き下げを収集して、それらを編纂するのに時間がかかった、ということを意味します。

 この33巻本をもとに、教祖50年祭と立教100年祭の両年祭の旬とされていた昭和11年~12年の間に、8巻本のおさしづが刊行され、全教会に「おさしづ本」が下附されます。しかし、昭和12年に日中戦争がはじまり、さらに昭和16年には日本がアメリカとの戦争に踏み切っていくなかで、各教会に下附された「おさしづ本」は「おふでさき」とともに国の指導で回収されました。再び各教会に下付されるのは、終戦後の昭和23年以降のことです。

 その後、教祖80年祭に向けて8巻本を改修することになり、そのために既載・末載を問わず残された書き下げを収集し、書き下げの用紙の検討と筆蹟鑑定をしたうえで、取次人による書き下げであるかどうかを判断しました。そして、いくつかの表記上の変更を加えて、現在の改修版昭和38年~41年に刊行されました。さらに改修版は、教阻90年祭の際に縮刷版として刊行され、現在皆さんのよく知る全7巻の「おさしづ」になります。

「おさしづ」の研究史と今後の課題

「おさしづ」研究の分野としては、原典として決定版を編纂していく過程の書誌的な研究のほかに、「おさしづ」の言語表現の研究歴史的研究、個別の「おさしづ」の解説教理的(理念的)研究など、さまざまな研究が蓄積されてきました。対面式の授業であれば、資料の配布や回覧によって研究の内容を詳しく説明できるのですが、時間とデータ容量の余裕がありません。

 ここでは、簡単に「おさしづ」研究の可能性についてまとめておきましょう。



 まず「おさしづ」は、①天理教史の一次史料(当時の歴史を学ぶ基本的文献)として、重要な意味を持っています。明治20年から40年の間に、天理教内ばかりでなく国内外においてもさまざまな出来事がありました。こうした歴史的出来事に対して、当時の人々は常に「おさしづ」を伺って問題に対処しようとしてきました。

 また、あるべき教会や信仰のあり方を教示するために、親神/教祖の側から飯降伊蔵を通して神意が伝えられているケースも沢山あります。教会公認や一派独立、教祖年祭といった天理教史の重要なトピックスばかりでなく、当時の社会状況等を知るための史料としても「おさしづ(本)」の内容は極めて貴重なのです。

 また「おふでさき」や「みかぐらうた」と同じように、②教理の源泉となるテキスト(原典)としても重要です。「いんねん」や「たんのう」といった教語(天理教独自の概念や用語)は、ほとんど「おさしづ(本)」のなかでしか使われていません。このため、これらの教えについて深く考えるためには、「おさしづ」の内容を広く確認する必要があります。

 また、言葉や概念自体は明確に提示されていなくても「生まれかわり」などについて説いた事例が沢山あり、これらを広く参照することによって天理教の基本的な人間観や世界観について考えることができます。さらには、教会本部の「ぢば」への移転や「かぐらづとめ」の様式などについての教示は、より具体的な事例を通して教えの本質的な要素について考える材料を提供してくれます。

 さらに「おさしづ」は、③求道の手引き(信仰生活の糧)として、わたしたちの人生を支えてくれます。「おさしづ(本)」にまとめられた「書き下げ」には、人生の難問に直面した際に、困難を乗り越えて生きていくことを可能にするような力強いお言葉がたくさん書き残されています。これらの「神の言葉」とともに生きるとき、必ず多くの人々の人生が豊かになるはずです。人は多かれ少なかれ、節目々々に人生を支えてくれる言葉とともに生きています。ときには「諦めたらそこで試合終了だよ」というような、漫画の一コマの言葉が多くの人の支えになることもあるくらいです。

「おさしづ」には、人生の岐路に直面した人々が真剣に神意を伺った際に語られた、神の応答が書き残されています。同じような人生の問題は、100年の時間を経た現在に生きる人々にとってもまったく変わらずに存在しています。真剣にそのお言葉に向き合う人は、きっと現在の自分の問題に向き合うヒントをそのお言葉のなかに見つけられるはずです。

「おさしづ」研究の基本姿勢は、教祖を通して伝えられた教えを生活に活かし、現実問題に対処する方途を「おさしづ」に学ぶことだと言えるでしょう。

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